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大したことないってシンデレラは言うんだけど

 雨を嫌いな女が歩いている。


 夜だ。傘はない。


 当然寒い。


 立ち止まらない。いったん歩くのをやめてしまうときっと一歩を踏み出せなくなる。帰りたい。だって雨なんか嫌いで、それに濡れている。したたってる。


 帰りたいと彼女は思っているのだが、実際、今、帰っている。帰り道の途中だ。なのに気分は晴れない。


 当たり前だ。雨なのに晴れるわけがない。女は笑顔を作る。面白くない。全然、面白くない。


 路面が街頭の光を反射するので、不必要に明るい。


 さっきから雨に打たれているのは彼女一人だ。


 辺りには誰もいない。猫すらいない。雨が降ってなければ会えるのに。


 でも彼女は猫に嫌われてる。


 この辺りの白猫、ちょっと知っている。目の色が左右違うから覚えてるのだ。はっと目が合うと、びっくりしたような顔して、猫っていつもびっくりした顔してる。一歩近づく。相手は五歩ぐらい逃げる。もう一歩。今度は十歩逃げられる。にゃあ、なんて鳴き真似してみるけど全く効果ない。いつかその内仲良くなれたら、なんて思うけど、そのいつかなんていつ来るんだろう?


 一方的に猫と遊んでから三十分ぐらい歩くと家に着く。

 引っ越してから健康を意識してちょっと遠くの駅から帰るようにした結果、これだ。


 一歩ずつ歩くごとに嫌いなものがどんどん増えていくのでこのまま歩いてたら家に着く頃には世界が破滅しても当然になってしまうかもしれない。仕事も嫌い。電車も嫌いだし電車から降りて、歩くのも嫌い。健康も嫌い、だって自分が嫌い。


 大嫌い。


 大嫌いなものの上を大嫌いな女は歩いている。


 さっきからずっとヘリコプターが飛んでいるが、別に女を助けに来たわけではない。


 天気予報をちゃんと見るように、自分の大脳の一番凄いところに刻みつけてやりたい。


 車すら通らない。もうとっくに雨には降参してるし観念してタクシーを捕まえようとしてるのに、それすら許されないみたいだ。


 酷い。そのくせ初乗り710円。乗る前から腹立つし、腹を立てながら乗りたい、でも来ない。


 そもそも、雨じゃない。大雨だ。靴が勝手にぐちゅぐちゅしてる。


 でもこんな、何もかも嫌いだなんて、おかしい。もしかして、自分だけが悪者なのか。


 違う。そんなことない。絶対違うし信じない。


 傘、傘があればいいのに。コンビニすらない。この先ずっとない。トイレに行きたくなったらどうするつもりだったんだろう。ルート考え直さないと。困る、今困ってる。コンビニがなくて傘がなくて何もないからすごく、困ってる。


 誰か傘を貸して欲しい。王子様的な誰かが現れて、傘を貸してくれるんだ。そういうのがいい。


 いない。猫すらいないのに王子様がいるわけない。


 だいたい傘を貸してしまったら、王子様はその後どうやって帰ればいいのか? 何も考えてない。自分勝手だ。


 自分の悪い部分が見つかったので少し反省する。


 後から車が近づいてくる。照らされる。影の方が女よりよっぽど幸せそうだ。走り去る。


 今のがタクシーだったらどうしよう、と改めて顔を上げる。違う。


 タクシーだったとしてもどうしようもない。


 スマホの画面が濡れててロック解除できない。


 19時43分。


 また車。今度こそタクシーでありますようにって、期待を込めて、女が振り返る。


 車じゃない。音が違う。


 馬だ。


 真っ白な馬が二頭、反射した道路に照らされてぼうっと光り、馬は馬車を引いていて、御者が、馬車はオレンジ色の、丸っこい、からからと音を立ててどんどん近づいてきて、馬車はほのかに自ら光を放っていて、ますます輝きを強めながら、彼女の目の前で、ゆっくりと、止まる。


 馬が体を震わせる。ちちぃ、というまるで馬らしくない甲高くてか細い鳴き声。工事したばっかりの真新しいアスファルトの上でかちかちと足踏みする。


 女の目の前にかぼちゃの馬車が止まっている。


 馬車の扉が静かに開く。真っ白な光がどっとあふれ出す。


 大丈夫ですか?


 まぶしくて中は見えないけど、声がする。女の人だ。


 あの、どうぞお乗りになって下さい。お送りいたしますから。


 見える。奥に腰掛けてる。ふわふわの真っ白なドレス、きらきらのティアラ、ゴージャスな雰囲気の服装なのにノーメイクでまだ幼いぐらい顔立ちだから可愛らしくて歳は十六ぐらい、だとすれば女よりぎりぎり一回り下ぐらい、けど金髪碧眼の人の歳まで女は正確には分からない。


 立ち上がってこっちに身を乗り出す。雨が当たってしまいそうなのにも構ってない。


 ガラスの靴。


 送る? え、送るってどこに?


 きょとんとした顔で問い返される。もちろん、あなたのお宅ですよ。 帰る途中でいらしたのでは?


 それはそうだ。いや、そうだけど。えっと。タクシー? タクシーの人? じゃ、ないよ、ね。


 シンデレラをご存じないのですか?


 知ってる。知ってるけど、あの、何て言ったらいいのか、知らない人に付いていったら危ない、違う違うよね、シンデレラは知ってる、知ってるって今言ったばっかりだ。おかしいよね。おかしい? 私がおかしいのかな、これ。


 ほら、これ、魔法の杖です。お婆さまから貸していただいています。濡れたお洋服も魔法で乾かして差し上げますよ。


 へぇ、知らなかったな。シンデレラも魔法使えるなんて。いや、でも違う、根本的に、えっと、別にそのあなたの親切を疑ってるわけじゃなくあの別に、気を悪くしたら悪いんだけど、あれはお話で魔法使いなんていないし、ね? 色々と本物ではないわけだし。


 後手に杖を持ち、右手の人差し指を立ててくるりと回す。


 星屑が散らばる。


 ぱりん。


 軽い音を立ててスマホにひびが入り中央から植物の芽が生えてぐんぐん伸びてつぼみが膨らみ次々に穴が開いて。輝くぐらい真っ白なバラの花。


 本物くさい。しかも善意の申し出を警戒されて、気を悪くしてる。


 そんなことはありませんよ?


 咲いたばかりのバラにもばちばち雨が当たる。


 くしゃみ。


 拭いてもらう。


 何で?


 かぼちゃの馬車の中は暖かくて明るくて、外から見たよりずっと広い、天井には小さなシャンデリアまで、明かりもないのに宝石がみずから輝き、何もかも、真っ白でまぶしいくらいだ。かぼちゃの馬車ってことは、馬はハツカネズミで、御者はトカゲ、だっけ? 何でこんなことに? 明らかにまともな行動じゃないと女は自分でも思うが、結局、雨が悪いのだ。服は魔法で乾かしてもらったけど体は自分で拭かなきゃいけない、自分で拭ける、って言ったはずなのに頭を拭いてもらってる。


 なんだかちっちゃな子供に拭いてもらっているみたいだ。おとぎ話の人だから。本当に何もかも真っ白で、まだ王子様と会ってないのにもうお姫様みたい、白雪姫にもそのまま出てきそう。かぼちゃだ、かぼちゃの甘い匂いがする。


 おいしそう。


 え?


 何でもないって慌てて誤魔化す。女は笑顔を作る。


 やめる。


 タオルを借りて、顔を拭うふりをしてこっそりつねってみる。痛い。


 痛かったら確か、夢じゃない、はずだけど。夢の中で自分の顔つねったことなんてないから夢かどうか分からない。


 ほんとにシンデレラなんだよね?


 そうですよ。本当の、つまりお話の、シンデレラです。


 よろしくお願いしますねというちょこんとしたお辞儀。


 現実ですけど、同時に、お話の中なんです。結構凄い経験なんですよ、これって。自分で言ってしまうのもおかしなことですけど、あの、シンデレラの有名なお話にあなたは参加されてるんですから。


 これって、その、良かったのかな? 私なんかが乗っちゃっても。


 全然。お気になさらずに。


 あの、良く分からないけど、こんなのって私の読んだシンデレラには書いてないことだし、だから話と言うか運命と言うか、展開が変わっちゃったりとか。


 シンデレラはにっこり笑う。大丈夫ですよ。舞踏会に向かう途中であなたをお家まで送るなんて、これからの出来事に比べたら大したことのないお話ですから、誰も、わざわざ書いたりはしません。


 えぇと、じゃあ、これから舞踏会なんだ。


 そうなんです。


 あっ、じゃあ、気をつけないと。魔法のことだけど。


 ええ、十二時になったら解けてしまいます。そして慌てて帰る時にガラスの靴を落としてしまうんですけど、王子様がそれを拾って、私を捜し当てて下さるんです。そして私は王子様と結婚して幸せに暮らすんです。


 何だ。もう最後の方まで知ってるんだ。


 何と言っても、有名なお話ですから。


 ちょっと嬉しそうだ。きっと何もかも、ちょっとずつ自慢なんだ。絨毯なんてあんなにふわふわなのに、動き回っても塵一つたたない。座席をずいぶん濡らしてしまったけど、どうせ、十二時にかぼちゃに戻ってしまう。あんまり遠慮することもないのかもしれない。


 こんなぐしょ濡れだったら、かえってタクシーに乗ったら迷惑だったかもしれない。お客さんが立ち去った後席がずぶ濡れだったなんてタクシーの怪談話があったのを思い出す。そんな話になりたくない。


 でも羨ましいよ。私なんか今夜大雨になるのも知らなかったし、これから幸せになるのかも分からない。二十四年間も生きてて、これだもの。


 二歳鯖を読む。


 二十四年間なら、仕方のないことですよ。私は三百年ぐらい、もしかしたらもっと前から、ずっとこれですから。でも三百年経っても私にとっては今日が初めての舞踏会ですし、やっぱり、三百年経っても、王子様と初めて顔を合わせるのは、その。


 話が途切れる。うつむいてはにかむ、女の方を向いて、黙って、だってこの先は言わなくても分かりますよね? 恥ずかしげに。さっと立ち上がって女の隣から向かいに移る。たった一歩、足を踏み出して反対を向いて座るだけの動作の中でドレスの端がふわりと持ち上がり、なるほど、やっぱ王子様ってああいうのが好きなんだと女は思う。


 縁のないはずだ。


 王子様なんておとぎ話だから許されてるだけで、だから馬鹿らしい。女の見解としては、こう思う。だけど、でも、こんな風に馬鹿らしい幸せを受け入れられないからこの世界が嫌いになってしまうのではないだろうか?


 考える。


 大変なことに気付く。


 あの。一応確認しておきたいんだけど、どこ向かってるのって聞いたら、当然、ここからお城、王子様、のいるお城に向かってるんだよね?


 ええ、そうですけど。時間のことでしたらお気になさらずに。どうせ何分あっても、夢のようで、あっという間に過ぎてしまうのですから。


 うん、でもあの、私の家、分からないよね? その、この先なんだけど。つまり私が言いたいのは私の家はこっちの世界に存在するマンションなわけで万が一あっちに行っちゃって帰れなくなっちゃうとか。


 まあ。ご心配なく、ちゃんとこの先、教えていただければ少し寄り道して、前で降ろして差し上げます。悪い魔女の棲む森に置いてけぼり、なんてことはありませんよ。


 それでは違うお話です。


 窓の外を見てみようとするが、かぼちゃの形にくり抜かれた小さな窓から見える景色はとても小さいし、中が明るすぎて外の様子が良く分からない。自分の姿が窓ガラスに反射して映る。乾いてはいるけども、何もかもひどくみっともなく、洗い流されてしまっている。だけどつい五分前まで、あのシンデレラと、比較されるなんて思ってなかったんだから、こればかりは仕方がないのではないか? こっちは王子様、と口に出して言うのも恥ずかしいぐらいなのに、あっちは一目惚れさせて結婚。


 いくら顔を眺めていても釣り合いが取れる魔法はかからない。諦める。


 この通り沿いじゃないんだ。ちょっと曲がるんだけど、まだまだ先だね。


 雨はますます強く降り続いているのに何の音もしない。振動もない。あまりに静かなので死んでしまったのかもしれない。もう一度つねってみたりはしない。どうせつねったって、何もはっきりしない。


 シンデレラと会話するための共通の話題って何だろう。彼女が知っているのはせいぜい継母にいじめられて、魔女が魔法を使って、十二時になって、ガラスの靴を履いて幸せになることぐらいだ。有名だと言っても、その程度しか知らない。検索して調べておきたい。でもスマホは使えない。明日からどうしよう。十二時になったらちゃんと直るだろうか。


 あの、そう言えばお名前をお聞きしていませんでしたね。


 つまんない名前だよ。鈴木遥香。名刺もあるけど、全部濡れちゃってるかな。


 鈴木さんはどのようなお仕事を?


 商社の事務職。って、言って分かるのかな。お金の計算をしたり、領収書の整理とか、うぅん、とにかくつまんない仕事だよ。シンデレラ、さん。


 シンデレラに、さん、はつける必要ないですよ。誰もつけてませんから。


 何で王子様には様をつけなきゃならないんだろう、女は昔の人を恨む。


 シンデレラはどんな仕事を。


 してるんだっけ、と言いかけて、言わなければ良かったと思う。もう言ってしまっている。


 ごめん、絵本で読んでたよ。継母にやな仕事を全部押しつけられて。あんまり話したくないことだよね。


 いえ、全然構いませんよ。もう今日で、全部終わりです。終わってしまうんです。豆を選り分けたり、冷たい水でお洋服の洗濯をしたり。


 手袋を取って手を見せる。つるつるの真っ白だ。


 でもこれは、魔法のおかげです。本当はあかぎれがいっぱいで。


 私の手じゃないみたいと言いながら手袋をはめる。


 嫌な仕事でしたけど、いつか終わりますし。


 永遠に終わりそうもない仕事を明日以降も抱えている女はそうだねと返す。


 昔はこのあと、もっと嫌な目に逢ってたんです。グリム童話の灰かぶりの話はご存じですか?


 ん、なんか聞いたことある気がする。


 二人の姉は、私のガラスの靴、グリム童話だと金の靴ですけど、あれに足を入れるために、それぞれ、つま先とかかとを切り落とすんですよ。あんなことしても無駄なのに、私の幸せは奪えないのに、どうしてもやってしまうんです。


 うわぁ。


 義母が命令したんです。義母なんて、母だと思ったことありません。義姉も同じです。でも、だからって足を切り落とすなんて、そんなの酷すぎる。分かりません。全然分からない。


 沈黙。


 私は、二人の姉の血でべっとり濡れたガラスの靴に、自分の足を入れるんです。こうして幸せになるんです。こうしなきゃ、幸せになれないんです。


 大昔の話です。今はそんなこと、誰もしません。


 しなくて良かったって思います。


 女は黙っている。


 自分も義姉と同じ側の人間で、それなら幸せになるために足を切り落とさなければならないのだ、などと考えているのかも知れない。


 考えていたとしても、言うわけない。


 口を開く。


 でも最後は幸せに暮らすんでしょ? どんな経験したって最後は幸せになれるんだから。羨ましいよ。


 本当にそう思います?


 うん。世の中にはシンデレラみたいな幸せのためなら足を切り落とす人なんてきっといっぱいいるよ。私はしない、出来ないけど。だいたい王子様だってきっと領民から税とかいっぱいふんだくってんだよ。誰かが幸せになるために不幸にならなきゃいけないのには変わらないわけで。


 こんな話をするべき時と場所ではないということにようやく気付く。


 ごめん、ほんとごめん野暮だよね、これこそ書かなくていいことだよ、気にしないで、気にしちゃ駄目だから。


 はい。


 あそこまで屈託のない笑顔をされると少しは気にしなよ、と言いたくもなるかもしれない。所詮住む世界が違うんだ。


 羨ましいよ。


 確かグリム童話ではもっとすごい展開もあったはずだ。女は知っている。知っているのを思い出す。確か鳩が出て来たんだ。そして最後、結婚式の場面で鳩が義姉の両目をえぐり出す。帰ったらネットで調べよう。調べないだろうな。


 これから義姉の両目をえぐり出す人間の表情とは思えない。


 つまり、えぐり出さないんだろう。


 馬車が止まる。


 赤信号ですよ。


 聞く前に言われる。


 あ、この先を左に曲がって。


 あの鈴木さん。


 うん。


 羨ましいなら代わりましょうか?


 え?


 シンデレラが馬車から降りると扉がひとりでに閉まる。


 え、え?


 扉についた小さな窓の向こうで、お元気でというちょこんとしたお辞儀。


 指を立ててくるりと回す。


 星屑が散らばる。


 馬車が急発進して女の家と反対方向に曲がり、ものすごい勢いで駆けていき後ろの窓から見えるシンデレラはあっという間に小さく、見えなくなる。足下が揺れ、がたがたと、立っていられない。ふかふかでとてもやわらかな絨毯の上に投げ出されるように倒れ込んでシャンデリアが天井にぶつかってがちゃがちゃと、振動と音、椅子にしがみつく体が座席に押しつけられる。飛行機が飛び立つ前の、あれだ、女は思う、どこかに飛んで行ってしまう。扉を開けようとしたところで、取っ手がない。何度も叩く。開かない。完全に閉じこめられている。前方に向かい這って進む。座席を掴んで何とか、やっと体を立てる。


 ちょっと! ねえ!


 前方にある御者席に通じる小さな小窓を開ける。


 開けようとした瞬間、馬車が大きく右に曲がる。


 叩きつけられる。


 びっくりして息が詰まる。痛みは全くない。壁もふかふかだ。でも大丈夫ではない。このままだと本当に、知らない世界に連れて行かれてしまう。もしかして、と女は思う。最初からこれが目的だったんだ。だから何の取り柄もない雨に濡れているだけの女がシンデレラに呼び止められて、って、冗談じゃない。ついこの間引っ越したばかりなのに昨日の今日で新天地だなんて。


 また大きく曲がる。


 こらえて立ち上がり、小窓の戸を開ける。


 ねえ止めて!


 顔を出して大声で叫ぶ。御者席の男が振り返る。


 止めて。


 もう一度言おうとしたのに、声が出ない。


 男がこちらを見ている。ひどく揺れているのにはっきり顔が分かる。馬車を猛スピードで走らせながら、前も見ずに、じっと、見つめている。


 トカゲの目だ。


 真っ黒な瞳だけの目が二つ、こちらを見据えている。のっぺりとした顔、青白い皮膚の下には一面うろこが生えているのが透けて見え、口は堅く閉ざされ、雨が激しく降り注ぎ、ぐっしょり濡れている。男の頭上に吊り下げられたランプが激しく振れていて、影が、男の顔をちらちらと左右に横切る。目は何も見ていない。まばたきもせずこちらをを向いているのに、何も見ていないのだ。


 ずぶ濡れの手袋が女へ伸びる。


 思わず下がる。


 男が小窓を閉める。


 馬車がきしみ、大きく旋回する。


 小窓から吹き込んだ雨で顔がぐしゃぐしゃに濡れている。頬に触れ、顔を覆い、ため息が漏れるし頭を抱えそうになる。


 指が頭の上の何かに触れる。


 ティアラだ。あのさっきまで、シンデレラが頭の上に抱いていた冠だ。


 全く同じものだ。女はよく覚えている。大粒のダイヤが中央にあしらわれ、精巧な銀細工で複雑な幾何学模様が彫り込まれている。ぴかぴかに磨かれていて、指先が近づいただけで表面がうっすらと曇ってしまいそうだ。


 女の顔が映っている。


 顔を拭く。


 ふいに馬車が止まる。


 ゆっくりと扉が開く。


 お帰りなさい。


 シンデレラがにっこりと笑う。


 元の場所だ。一周回って、帰ってきただけだ。


 冗談ですよ。


 じょ、冗談じゃない、って。笑えない。いや、女はここで笑顔を作っておいてもいいわけで、自分でもこの辺りは把握しているのだが、とにかく示しがつかない。示しって何? 立ち上がる、あわてて立ち上がる。みっともない。


 煙草を吸っている。シンデレラって煙草吸うんだ、いや、吸わないと思う。でも吸っている。二十歳超えてるの? 二十歳どころか三百年ですよ? 三百年経てば色々な考え方が浮かんで、消えるんです。でも私は幸せになるだけです。幸せになる以外、何にもなれないのです。でしたら何が私の幸せか、三百年の中から少しずつ選んでも良いのでは? 煙草を吸うこと、義姉を殺さないこと、雨の日にあなたと出会うこと。そしてシンデレラは馬車に乗り込む時に、真っ白な馬車の壁に、煙草をぎゅうっと押しつけて火を消して吸い殻を絨毯に捨てる。黒い一点の焦げ痕が、かぼちゃの馬車にくっきりと残る。


 かぼちゃの焼けた甘い香りがふわっと広がる。


 彼女のマンションはまだ新しい。オートロックのそれなりに小綺麗で、それなりに大きなマンションだ。大きいって言っても中身はただのワンルームマンションだけどね。女は卑下してみせるが、玄関までは小さな石で舗装されているし、小さいけれどエントランスホールもある。少しだけ自慢に出来る。


 雨はほとんど止んで霧雨に変わっている。


 あの、鈴木さん。


 ん。


 さっきはごめんなさい。


 別に気にしてないよ。送ってもらったし、全部終わっちゃえば、結構楽しかったんだから。あんまり幸せがどうとか重たく考えないで、舞踏会楽しんできなよ。


 はい。あの、鈴木さんも。


 私はその、うぅん、どうだろう。幸せか。今夜もこれから独りで寝るだけだし、たぶん明日も明後日も何も変わらないと思う。二十六年ずっとこうだったし。


 二十四年では?


 あ。そうだね。えぇと、少し大人のふりして言ってみたんだよ、今のは。ま、でもみんなだいたいこんなもんだし、これで構わないよ。一生お城にはたどり着けない、だから王子様もいないしシンデレラのお話みたいなすっごい幸せもないけど。


 分かりませんよ。たとえ何も変わらない一日でも、ある日突然、特別に幸せに感じてしまうことだってあるんですよ、きっと。今日がこの日でも構わないのでは?


 幸せはすぐ目の前にあった、的な? それじゃ違うお話だよ。


 ですけど、ほら。


 シンデレラが指さす。純白の手袋をはめた人差し指の先には、金属板で彼女のマンションの名前が書かれている。


 グランドキャッスル南高円寺。


 ね?


 ね、と言われてもただのマンションに大袈裟な名前が付いているに過ぎない。鈴木さんの向かう先もやっぱりお城だったんですよと言われても、これはやっぱり違うんじゃないかなと女は思う。少なくとも思っているはずなのに、一方で、このままシンデレラの理屈を受け入れてしまってもいいような気分だって、やっぱり女にもほんの少しはあったりする。


 つまり、そうかもしれないと女は言って、そして笑ってみせるのだ。


 馬車が行ってしまう。なんだか夢だったような気もする。でもスーツもシャツもなんだか乾いてるし、女のスマホからは真っ白なバラがしっかり生えている。きっと十二時を過ぎたら、このバラも消えてしまう。服もまたぐしょ濡れに戻ってしまう。でも十二時まできっと時間はあるし、その間だけ、女は雨が好きになったっていいと思う。だって馬車の中では分からなかったけれど、夜露でしっとりと濡れたバラからは、清潔な匂いがする。


 それにマンションの入り口に続くまでの舗装には、地面にライトが埋め込まれていて、下から光で道と女を照らしている。霧雨がここに、ほんの小さな虹を作っているのだ。当然女は虹には気付かない。地面に寝そべって見上げないと虹にはなってくれない。だが気付かなくても虹は存在している。霧雨が降れば、ここには必ず、虹が出来る。


 歩き出した女が虹を踏み潰して越える。

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