契機
「紀ちゃん、英語の辞書貸してよ」
突然背後から聞こえたそんな声に、紀子はびっくりして振り返った。そんな紀子を見て、英嗣が楽しそうに笑う。そうやって声を立てて笑うと、普段年よりも大人っぽく見える英嗣がようやく年相応に見えるから不思議だ。
「……鍵、欲しいな」
紀子が溜息と共に呟きながら立ち上がって本棚に向かうと、英嗣も何故か後を付いてくる。
「冷たい事言わないでよ」
「言うよ」
紀子はわざと素っ気無く言って、辞書を手に取る。
「ひどいな」
そんな言葉を耳にしたと思ったら、次の瞬間、首筋に生温かい息遣いを感じた。紀子は思わずびくりと体を強張らせ、振り返って、辞書を英嗣に押し付ける。
「はい」
最大限に腕を伸ばして、なるたけ英嗣に近寄らないように。
「どうしたの? 紀ちゃん」
英嗣はまるで何があったかわからないとでも言うように、無邪気そうに驚いてみせる。本当に、罪深い事なんてなにも考えていませんとでもいうように。
「……どうもしない」
紀子は警戒をあらわにして、英嗣を睨みつけながら、口だけはそういっておく。そう言っておけば、何もないことになるから。いつからか英嗣と自分の間にある、なんとも表現の仕様のない一種の緊張感。別に何が起っているわけでもない。言葉に出して何か言ったわけではない。そんなものは、なんの実体も伴わない。まぼろしのような物だ。だから、なにもしなければ、何も言わなければ、ある事にはならない。無視していられる。
「紀ちゃんは、可愛いね」
いつの間にか、身長が伸びて紀子と同じくらいの背丈になっていた英嗣は、クスリと大人びた笑みを見せて言う。
(また、あの目……)
そういう目をされると、紀子は居心地が悪くなってすぐにでも英嗣の前から逃げ出してしまいたくなる。たった一人の家族だから、とても大切にしたいはずなのに、何か恐ろしくて、遠ざけてしまいたくなる。
「馬鹿みたいな事言ってないで」
はやく部屋に戻って欲しい。そう思ってる紀子の気持ちなんて見透かしているような顔をして、見透かしているくせに気付かないフリをして、英嗣は紀子のベッドにどすんと腰をかける。自分が居座る気だっていうのを、わざと紀子に見せ付けるように。
「英嗣、試験が近いんじゃないの?」
「息抜きだよ」
「お姉ちゃんと息抜きしたって、楽しくなんてないでしょ」
ことさらにお姉ちゃんと、普段あまり使わない言葉を使ってみたのは無意識だけど、無意識の中でそれを英嗣に自覚させようと言う意図があったのだと、紀子は言ってしまってから気付く。お姉ちゃん、英嗣はその言葉をまるで飴玉を転がすように口の中で軽く繰り返した。
「そういえば、お姉ちゃん、お付き合いしている男の人がいるんだって?」
英嗣は敢えて紀子の使った「お姉ちゃん」という言葉を使う。まるで、自分がそれを言う事に何の罪悪感をも感じていない事を見せつけるかのように。そして、そんな話題をまるで息抜きの延長であるかのような気軽な口調でする。まるで何も重大じゃないかのようなその口調。
なんの前触れもなく、紀子の胸はその事実に対して鈍く軋んだ音を上げる。その自分の反応に、紀子自身が一番驚くほどに突然。
驚いて、慌てて紀子はそれをすぐに忘れようとした。押し付けて、沈み込めて、永遠に忘れようとした。
「英嗣には関係ないでしょ」
「ないの?」
「ないわよ」
「なんで?」
なんで、と聞かれて紀子は眉を顰める。なんで、と聞かれて明確な答えを持ち合わせるような内容ではないはずだ。あるかないか。その二つの問題だ。
「わたしと、小津さんの問題だから。そこに、英嗣が入ってくるものじゃないもの」
紀子は英嗣から視線を逸らした。なんだか自分が酷く冷たい事を言っているような気分になって、後ろめたくて。英嗣が傷つくかもしれない、そうと分かっていて言う自分が後ろめたくて。
「なんで? 入れてよ」
息抜きの口調のままで、それなのに、とても真剣な顔をして、英嗣は紀子の顔を覗き込んだ。そらした目を追いかけて、真剣な瞳が射竦める。
「僕もその仲間に入れて?」
甘え方を知っている末っ子の男の子。まるで他に意図などないように、子供が遊びの仲間に入れてくれと駄々を捏ねるような少し拗ねたような言い方。他に意図がないような無邪気な言い方だけど、この意味はそんな生易しいものじゃない。
「嫌よ」
紀子は鋭く言う。叫ぶようにそう言わないと、あの目に、英嗣のあの瞳に脅かされて、拒否できないような気持ちになって恐ろしかったから。
「ふうん」
英嗣はそれ以上は紀子の目を追いかけて視線を合わせようとせずに、少し醒めたような、冷たい声を出した。
「意地悪だね、紀ちゃん。僕がこんなに頼んでるのに」
非難の言葉は冷たくて、紀子は顔を俯ける。
(意地悪なのは、英嗣の方じゃない。自分はなにも悪くないって顔をして)
自分だけが被害者のような顔をして、紀子を罪悪感で打ちのめす。あんな目で紀子を見つめて紀子を脅かす。
だけど、反論もできないで、紀子はただそのに突っ立って、英嗣が立ち去ってくれるのを待った。これだけ拒否したのだから、もう、立ち去ってくれると思ってた。
なのに。
「だったら僕も、別の方法に出るしかないよ」
(別の、方法……?)
不審に思って顔を上げる紀子の目の前、英嗣は最近益々大人びてきたその整った顔で冷たく微笑んで、ポケットから何かを取り出す。それが何か、理解した途端蒼白になった紀子の顔を、とても満足そうに哂って。
「紀ちゃん、僕から隠してたんだよね。父さんに愛人がいる事。……父さんは愛人を愛してて、僕たちなんて目に入ってなくて、ただこの家が目当てなだけだって」
穏やかな、こころの隙間に入り込もうとするような、少し低めの優しい柔らかな声。
「紀ちゃんにとって、家族って僕だけなんだよね? 紀ちゃんを愛してあげてるのは僕だけなんだよね」
手足に震えが走る。指の先の感覚がなくなるくらい、紀子は慄いていた。
「紀ちゃんが僕に意地悪するなら。僕は別の方法をとるよ? ……僕は、紀ちゃんを脅すよ?」
残酷なくらい綺麗な笑みを浮かべて、満足そうに、唇の端を上げて。
(ああ、獲物を食べる前の獣の目だ……)
紀子は呆然と英嗣の顔を眺めながらそんな事を頭の隅で考えていた。
「唯一の家族なのに、僕、紀ちゃんを嫌いになるよ?」
英嗣の微笑みは、勝利を確信した自信に溢れている。紀子は震える体を支えていられなくて、その場にへたり込んだ。英嗣は立ち上がって紀子の側まで歩いてくると、偽りの慈愛に満ちた瞳で紀子を見下ろす。
「それが嫌なら、僕の頼みを聞いてよ」
そう言いながら英嗣は紀子の返答も聞かないで手を伸ばして紀子の頬に手を添えると、紀子の顔に自らのそれを近づけた___。