予兆
食事中、ふと視線を感じて顔を上げると、前の席に座っていた英嗣が紀子を見ていた。
「何?」
ナイフの手を止めて、そう問いかける。英嗣と言えば、食事には一切手をつけずに、薄く微笑みを浮かべて行儀悪くテーブルに肘を突いて、ただ紀子を見ていた。
「別に」
「別にって。なら、見るの止めて」
英嗣の茶色い透き通った瞳は、真っ直ぐに紀子を見てくる。その視線に見つめられていると、なんだか窮屈なような、居心地の悪い気持ちになってくるのだ。
「なんで?」
「何でって。あんまり英嗣に見られたくない」
「へえ」
英嗣は相変らず、薄く、酷薄そうな微笑を浮かべたまま。楽しそうに、瞳を細めた。その目はまるで、小動物を気まぐれにもて遊びながら狩をする、たちの悪い獣のような___。
「英嗣」
紀子は少し強めの口調でたしなめるように言う。
見られているだけなのに。ただ見られているだけなのに、追い詰められているような気になるのは何故だろう?
(最近、英嗣は変だ)
どうしてこんな目で紀子を見てくるのだろう? どうして、気づけばいつも。いつもいつも紀子を見つめているのだろう。こんな、獲物を追い詰めるような目で。かと思えば、とても身動きが出来ないくらいに真剣な瞳で。家中、どこに行っても英嗣の視線が追って来るような錯覚に陥ってしまう。
「紀ちゃん、何そんなにイライラしてるの?」
英嗣はその年の少年に相応しく、相応しいと分かっているからそうしているとでも言うような可愛らしさで、微かに首を傾げてそう言う。そう言ってから、ふと何か思いついたような顔をして。くすり、と微かに笑って。そして。
「もしかして、月のもの?」
カッと紀子の顔が熱くなる。
なんてこと。なんて侮辱。
どうして弟に、こんな事を言われなければいけないのだろう。
(___恥ずかしい)
確かにソレは、1年程前から紀子にも訪れ始めた。大人になるための準備だと、保険の先生は言うけれど、紀子にはいまだに慣れないもの。
「いい加減にしてっ」
紀子は叫んで、手元にあったフォークを咄嗟に英嗣に投げつける。がしゃん、と言う音がして、乱暴に扱った手が皿をはたいてテーブルから落とす。フォークは軽く英嗣を外れて、床に音を立てて転がった。
「まあ!」
台所にいたはずの家政婦が、物音を聞きつけて駆け込んでくる。
「何をなさっているの? 紀子さん。あなた、女の子が、まあ」
甲高い叫び声を上げて、紀子を非難する。その大きな声に、紀子はびくりと体を震わせて、俯いた。
人見知りは紀子の悪い癖だ。未だにこの家政婦とも慣れない。その間に、外面の良い英嗣などはすぐに愛想の良い顔と適度の礼儀正しさで、すっかり気に入られてしまった。
「ごめんなさい……」
消え入るような声で紀子は言う。聞えよがしの家政婦の呆れたような溜息。
その向こうでまた、紀子は英嗣の視線を感じていた。俯いていても分かる。紀子の体を縛り付けるような、強く、強烈な視線……。
紀子は思わず顔を上げることもなく、その場を逃げ出していた___。