1章7話
――ああ。軍神マルドゥークよ。早く、早くここから私を解放してくれないか。
それが今、叙勲式場内にいる人間が抱く願いではないだろうか。
さすがにオーランは軍神に頼みを託してはいない。ただ、さきほどから鳴り止まない耳鳴りが煩わしかった。音自体は小さいが、きぃんとした甲高い音が耳奥から頭の中に響いてくるのだ。
極度の緊張で五感が乱れているのかもしれないと思っていると、つうっと背中を一滴の汗がつたう。生温かい汗はひどく生々しく、久方ぶりに味わう嫌な感覚だった。
幾多の戦をくぐり抜けたオーランですら息苦しさを感じているのだ。列席者一同は、それ以上に重圧を感じているのも無理はない。
中でも、シラッドと真っ向から対峙しているヒュームの狼狽ぶりは抜きんでていた。
顔色は蒼白を通り越し、土気色で生気がない。振るい上げた長剣を持つ手は小刻みに震えている。
そして、その手の挙動に勝るほど、鉄製の足甲がガシャガシャとせわしなく鳴っていた。
場内の様相を例えるなら、弓の弦が限界まで引き絞られたような切迫感に似ていた。
東方人のシラッドが放つ冷たい圧力は淀みがなく、いまだ場を支配していた。
目前の東方人に制止の声を一声掛ければ、鬼気をおさめ、この抑圧された空間から解放されるかもしれない。
ただ、その一言が遠すぎた。
口を真一文字につぐんだ列席者たちの顔からは、あの殺気を自分に向けられるのだけは避けたいという思いが、ありありと浮かんでいる。
それだけでなく、傍目でみてもヒュームに余裕がないのだ。哀れなほど怯えている。おそらくこの場にいる誰かが一声発することで、それが呼び水となり動くきっかけをつくってしまう。だからこそ下手な刺激は危ない。
その点については恐怖に怯え声を失っている列席者は論外だが、オーランをはじめとした幾人かの武人はよく心得ていた。
だから一音も洩らさない。
泥沼に浸かっているようで終わりが見えない重圧の中、ダッドが場違いな勇気を振りかざす。
「げ、げ、厳粛なる叙勲式の場で――」
乾いた声が空々しく場内に響き、張り詰めていた弦が思いもよらぬ方向から切られる。
(――ッツ! 馬鹿者が!)
オーランはダッドを鋭く睨みつけた。
そしてすぐ、ヒュームが動く前に場を納めようと声を発しようとする。
だが遅かった。
ダッドの無遠慮な言葉が引き金となり、
「ふあぁぁぁぁぁぁ!」
と、情けない声を挙げ、ヒュームが押し出されたように動いた。
ヒュームの動きに応じ、流れるような所作でシラッドがゆらりと揺れた。
ドタドタと足がもつれるように駆けるヒュームから、袈裟切りの格好で長剣が振り下ろされた。
ヒュームがシラッドの刃間深くまで不作法に入る。すると、それまで緩慢な動きだったシラッドから、木刀を思わせる刀が稲光のようにカッと抜き放たれた。
オーランは思わず息を止めた。式典での流血騒ぎは禁忌だ。ダッドにいたっては両手で顔を覆ってしまっている。
――斬られた、と誰もが思い息を飲む。
けれども鎧を斬り裂く音も、剣同士がかち合う金属音も鳴らない。
その代わり。シラッドが放った刀が、まるで吸盤がついているかのようにヒュームの長剣に張り付いていた。
そして剣戟がそのまま下にいなされる。
ザン、とヒュームの長剣が簡素な絨毯に収まる音だけが場内に響いた。
目の前の出来事は、アラトリア帝国劇場で見る剣劇の一幕を思わせた。流石に拍手や喝采はないが、しばし余韻が残っている。
そして東方人に対する思いも忘れたのか、名優と大根役者の演目を観覧した列席者たちから嘆声がもらされた。そのあとすぐ、呆けた表情を浮かべた自身に気付き、慌てて顔を引き締めていた。
(……ひとまず、どうにか。か)
オーランも感嘆と安堵を同時に覚える。そして、見るも鮮やかに場を納めたシラッドをうかがう。ふと目に入る木目状の刃紋。オーランが注ぐまなざしに対し、刀が意志を持っているかのように怪しく色を引く。
ふいに天将軍の心がざわついた。
(……あの刃紋)
口の中がじわっと酸っぱくなる。
続いて、生涯忘れることはない古い記憶が泥水のようなねばりと一緒に呼び起こされた。
それは色あせない苦い記憶だった。
20年ほど前、アラトリア帝国は東部開拓の旗印を掲げ、レガイア大陸東部に触手を伸ばした。
レガイア大陸は、縦横に長く伸びた白竜山脈を境に文化や特産品が全く異なる。
大陸東部には、大陸西部に原産しない黒胡椒をはじめ、独特の文化で生み出された調度品や武具、そして異国情緒を漂わす色気をまとった黒髪の女が存在する。そのどれもがアラトリア帝国人には魅力的に映ったはずだ。
そうして帝国内からの反対意見もなく、東部開拓が意気揚々と進められた。
アラトリア帝国にとっては新境地の開拓だろう。けれど、大陸東部の国々から見れば侵略者の到来にしか過ぎない。
そしてアラトリア帝国の尖槍が白竜山脈を越え、大陸東部の西端に差し掛かった。そこで、東部のある一国が立ち塞がり、開戦の狼煙が上がった。
この会戦を、東部戦役という。
アラトリア帝国人は、劣等民族と断じていた東方人たちに負けることは毛ほども考えていなかったはずだ。けれでも猛々しく掲げた尖槍は空を切り、ただ一度の会戦で敗走を余儀なくされた。
元凶は、東方の剣士の存在だった。
鮮血を連想する朱色の布地に黒紋が記された陣羽織を羽織った彼らは数こそ少なかったが、戦場の死神として君臨した。東部戦役の戦場各所で吹き荒れる凶刃の嵐と、淡々と築かれていく死屍累々の山。彼の者たちが手にしていた刀は確か――
途端に全身が総毛立つ。
「――ダマスカス刀!」
当時、アラトリア帝国兵の誇りと生命をむしり取った東方の妖刀。それを今、目前の東方人が手に携えている。
オーランは叫ばずにはいられない。思わず椅子から立ち上がった。それと同時に列席者の目が、シラッドの刀に一斉に注がれた。
(――この者! 一体何者だ)
オーランは心中で重ねて叫んだ。
刀の銘について確認すらしていないが、何故かこの東方人が持つ刀は“写し物”ではない気がした。またそうであって欲しいと思ったことは、オーラン自身気づいていない。
シラッドが食い入るように自分の刀を見つめるオーランや列席者の視線に気付き、それを振り払うように刀を翻し鞘に納めた。そして、眼を見開き直視するオーランを煙たがるように振り切り、ヒュームの方を向く。何も答える気はない、という所作だった。
剣を手放していたヒュームは、所在なさげにへたり込んでいる。放心か安堵か。ヒュームは、どちら付かずの表情を浮かべていた。
すでに静けさを取り戻したシラッドがヒュームの長剣を絨毯から抜き取り、持ち主に返そうとする。
「ひっ!」
ヒュームを地面に腰をつけたまま後ずさる。その様子に対しシラッドは寂しげに小さく笑い、剣をそっと絨毯の上に置いた。
場内の視線が集まる中、シラッドがそっと話し出す。
「……場を白けさせてしまったようで」
さきほどまでの鬼気が嘘のような声色だった。そして、そのままの調子で続ける。
「ただ知っておいてもらいたかったのです。自身のことしか顧みず、そしてそれがもたらした“こと”の顛末を。最初に死ぬのは、貴方がたが普段ほとんど接することがない者たちです。ある時は、兵士ですらない者が犠牲になるでしょう。…………何故。何故、自分たちが生きているのか考えたことがありますか?」
一度区切り、問いかけるように列席者を見回した。
「……理由はひとつです。それは貴方がたが優れているからでしょうか。……違います。代わりに死んだ者がいるだけです」
静かに。そして冷たく畳み掛ける。
「為政者として振る舞いたいのなら、眼を向けるべきは家名や誇りではない。国民だ。それをゆめゆめ忘れないでいただきたい」
「――以上を自分の言とさせていただく」
シラッドの意見表明が終わる。
叙勲式場内は静粛としていた。もはや列席者の誰もが言葉を返す気力すら残っていない。
ただそれぞれが抱いた思いは、様々な反応で正直に表していた。
突き付けられた正道にうなだれる者、シラッドを無視するかのようにそっぽを向く者、下賤な傭兵の説法に目を剥く者などのように。
ひねくれた言い回しではあったが、シラッドが吐いた言葉は地に足がついている。得も言われぬ重みもある。少なくともオーランは感じ入るところがあった。
ただはたして、名家出身の列席者たちはシラッドの言葉をどこまで真摯に受けとったであろうか。
少しでも思うところがあれば良いが、とオーランは胸中で小さく願った。
そして目を細くしてシラッドを見据える。
(この者とは、一度腰を据えて言葉を交わしてみたいものだな)
ただ、それは今でないことをオーランは理解している。ならば、と居住まいを正し、凛とした声で発する。
「元第一遊撃隊隊長シラッド。貴公の言、確かに受け取った。外方である貴公からの意見は有意義なものであった。無論、この場での貴公の言動や行動については何も咎めないものとする」
良いな、という目で、オーランは列席者一同に念を押した。
幾人かの列席者は強くうなづく。
シラッドが終幕の言葉を受けとり、軽く礼を返す。叙勲式に終わりが訪れた。
「……それではこれにて」
シラッドが踵を返し、来た時と同じように淀みなく歩みを進め、天幕の出口にまで向かう。
すると布幕を開ける平民出身の若い衛兵が、皇族に接するかのように、踵をカッと打ち鳴らし端然と背筋を張る。
「――シラッド隊長殿! 御退出!」
まるで、閣下と敬称をつけそうな勢いだった。それとシラッドはもう隊長ではないが、どうでも良いことだろう。シラッドが衛兵に軽く目を向け、わずかにうなずいた。それを受けた衛兵の目が輝きを増す。
正道の在りかは、シラッドに注ぐ衛兵の嬉々とした双眸が示していた。
布幕が開けられ黒髪の東方人が去るのと引き換えに、すうっと健やかな春風が場内に運ばれてきた。
風を受け、オーランは今が春だったことを思い出す。気が付くと汗は引いていた。
(春雷のごとき男だったな)
だが面白い、と自分でも気付かず天将軍は口元を緩める。
爽やかな風が――
オーランの心中にも吹き込まれていた。
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