1章4話
“白の至宝”。
レガイア大陸西部においてそう称えられる者が一人いる。
中天からやや傾いた午後、その人物が書物を読む姿は『本を読む聖女』といった題名がふさわしい絵画のようだった。
その人物が茜色に染まる空を見つめ、そっと息を吐く姿はアラトリア中の男を放心させた。
アラトリア帝国に住む者にとって希少宝石以上の価値を持つ人物――女の名は、カリナ・フィン・アラトリアという。
彼女はアラトリア帝国の第一王位継承者であり、帝国騎士団総長の位に座す。
今、シラッドの目前にいる女だ――
彼女は傭兵隊の詰め所に突然訪れた。稀代の美女が現れたのだ。当然、詰め所にいる傭兵連中は歓喜の渦に包まれた。彼女は熱狂する傭兵たちを諫めるため、労いの言葉を軽く投げかけた。
だが、陣中見舞いが目的ではないようだった。
あらかじめ言付かっていたのだろう。詰め所に着くやいなや、付き添いの近衛兵数名がいそいそと聞き込みを始めた。
ほどなくして目的の情報を入手した近衛兵はカリナの元に素早く戻り、シラッドが居る斜面を指差した。そして、カリナを先頭に近衛兵が数人付き添う格好で斜面へ向ってきた。
人違いではないだろうか。
シラッドはそう思いながら、斜面をしぶしぶ降りていった。思い当たる節はないが、さすがに王族を上手で待ち受けることはできない。隣にいたバラルは「へあ」と小さく声を上げ、バタつきながらシラッドの後を追いかけてきた。
シラッドが、斜面を降り切ったところで佇んでいると、カリナ一行は迷いなく真っすぐ向かってきた。
(……まさか今にもなって、叙勲式の出来事の責任でも取らされるのか)
そんなことを考えていたら、すぐにも彼女は目前に迫って来た。近くまで来た時。甘い香りがそよ風に運ばれ、ふわっとシラッドの鼻腔をくすぐった。思わず目をつぶってしまいたくなるような品の良い匂いだった。
そして、緩やかな斜面を背に、シラッドとカリナは真っ向から対峙する格好となった。
穏やかな春光が差した肌は、ひときわ白く輝いている。
腰近くまで伸びた金の髪はさらりとたなびき、眉は宮廷画家が描いたような曲線を描いている。双眸は凛々とし、やや薄い唇は愛らしい桜色を帯びていた。
そして華奢でありながらふっくらとした肢体を、皇族を象徴する白銀の鎧が包んでいた。
歳はまだ二十歳を越えてはいないだろうが、その佇まいには他を圧倒する高潔さがあった。
下卑た例えをするなら、穢れを知らない存在ということを強烈に意識させられた。
シラッドは内心で、ほう、と感嘆した。元皇族であるシラッドは、式典や園遊会といった煌びやかな集いで美女には慣れている。
そんなシラッドにしておいても、目前の皇女には清廉した美しさがあった。
ふと横目で隣に並ぶバラルを見ると、背が反りかえるほど直立不動の姿勢をとっていた。首は後ろに曲げ目は空を見ている。
騎士団総長を前にしての敬意か、見目麗しい皇女を前にしての緊張かは分からない。
分かったのは、今この場においてバラルは使い物にならないということだけだ。
頭の中であれこれ考えていると、目前の皇女から声を掛けられた。
「……貴方がシラッドですか。第一遊撃隊を率いたという」
そう問いかける声は柔らかでありながらも芯があった。警戒しているのか固さも多少混じっている。
「……ええ。そうですが」
相手の出方が分からない以上、シラッドは短い言葉で返す。眼は意識的にキツく結び、無礼にならない範囲で圧力をかけた。
「そうですか。フフ。どうやら話で聞いていた通りの人のようですね」
シラッドがかけた圧力もどこ吹く風で、カリナはほっと胸を撫で下ろしていた。
予想外の反応だった。
(何だこの反応は)
警戒感を持たれたり気分を害されるならまだしも、どこか一息ついたような雰囲気は理解に苦しんだ。
やりにくそうだな、と感じ先手を取られる前に二の句をつげようとした。しかし――
「……えー……」
何と呼べば良いかと考えあぐねていると、
「フフ。公の場ではありません。殿下でも総長とでも、好きに呼んでもらって構いません」
皇女が察して静かに言った。
「……そうですか。では殿下、どう自分のことを聞きかじっているか分かりませんが、一体誰からお聞きになったのです? それと出来れば要件をうかがいたいのですが」
矢継ぎ早に質問を投げかける。
カリナは少しだけ困惑した表情を浮かべながらも、臆面もなく発した。
「……随分と性急ですね。ただ、要件を伝える前に少し話をしませんか」
「――ッツ!」
この台詞には驚愕の思いを隠せず、シラッドは思わず眼を見開いてしまった。
“話をしよう”などとは、皇女が一介の傭兵に対して投げかける言葉ではない。
それはアラトリア王家に仕えている者でなくとも、「身に余る光栄」とでも述べ、跪いても良いぐらい異例中の異例のことである。
だが、シラッドの胸中は喜びではなく戸惑いで満ちていた。突然、自分の前に雲泥の身分差を持つ皇女が現れ、話をしましょうというのはシラッドの理解を越えている。
本音としては、どうせ良い要件ではないのだろうから、さっさと用向きを聞き、その対策に考えを巡らせたかった。
しかし、皇女であり騎士団総長のカリナが、話をしようと言っているのだ。
傭兵風情が嫌と言えるわけがない。
「……承知しました。それで何を話すんです」
シラッドはぶっきらぼうに言い放った。
「……本当に聞いていた通りだわ」
無礼とも言えるシラッドの態度に対し、カリナは腹を立てるのでもなく、むしろ感じ入った表情を浮かべている。
黒髪の東方人は、そんな彼女の様子を訝しげに眺める。
(良く分からない。一体何が目的なんだ)
「あ! ごめんなさい。まだ一つも貴方の質問に答えていませんでしたね」
こほん、とカリナは小さく咳払いをして続ける。その仕草はひどく歳相応に見えた。
「貴方のことは、オーラン将軍に聞きました」
「……オーラン……将軍ですか」
あまり思い出したくない場景ではあるが、シラッドは彼の将軍と一度だけ面識があった。
「深く話したわけではありませんが、オーラン将軍とは一度だけ会ったことがあります。……まさか、その時のことをお聞きに」
「そうです。その時の貴方の振る舞いを聞いたのです」
「……殿下。失礼ですが、それは自分のことではないのでは」
「いいえ。間違いありません」
「いやですが――」
シラッドが反論を言う前にカリナが被せる。
「『傑出した人物だった』と彼は言い切りましたよ」
「……」
シラッドはもうお手上げだった。
オーランと会ったのは叙勲式の場だった。ただ、シラッドが率いた遊撃隊の勲功を表彰する場に居合わせた人間から、自分のことを好意的に評されるとは考えもつかない。
困惑するシラッドをよそに、何が楽しいのか分からないがカリナは薄く微笑んでいる。
「『列席していた上級騎士以上の者たちに、辛辣な台詞を投げ捨てたのに何故だ』と思っているのですか」
「……」
シラッドは面白くなさそうに口の端を吊り上げた。
一杯食わせたことがうれしいのか、目前の皇女は満面の笑みで続ける。
「どうやら図星のようですね」
(チッ。さっきから主導権を握られ放しだ)
シラッドは生まれてこのかた、ここまで女に先を取られたことがない。怒りこそないが心中は面白くない。
そんなシラッドの様子がますます興に入ったのか、カリナはひとり微笑を絶やさなかった――