1章2話
爽やかな風が心地よく鼻をくすぐっている。
周囲には、つん、とした若々しい草の匂い。
バラルと別れたあと、雇用主を探すのを早々に切り上げたシラッドは、短草が無造作に生えた緩やかな斜面で仰向けに寝そべっていた。
くまなく探したわけではないが、依頼してきた当人が見当たらなかったのだ。
それに今回の戦はそんなに気が乗っていたわけではない。
雇用主が見つからないなら、それならそれで良いとシラッドは思っている。
また、傭兵隊の詰め所の喧騒から少し離れたこの場所は、一人で物思いにふけるには丁度よかった。
「これからも傭兵を続けるのか。……か」
シラッドは草の上に寝そべりながら、傍らに置いた愛刀の漆塗鞘を指でなぞり、さっきバラルに言われた台詞をそっとつぶやいた。
バラルに他意がないのは分かっている。
正直、心配してくれたことはうれしかった。
――ただ。
シラッドには傭兵を辞めた先がないのだ。
故国を捨ててから数年、目的もなくフラフラと傭兵を続けてきた。
今も目的があるわけでない。
「……一体どうしたいのかね、俺は」
国や家族などを捨て去ってきたシラッドにとって、バラルの言葉は鋭い響きをもっていた。
ふう、と浅く息を吐き片手をつきながら、やや体を起こし視線を遥か先に移した。
そこには高峻たる連峰があった。
レガイア大陸を東西に隔てるその山々は、ウルム山脈と呼ばれる。
山頂は年中雪に覆われ、山の稜線は龍の背ビレのように険しく切り立ち縦横に伸びている。
そのため“白竜山脈”という別名でも呼ばれている。
白竜山脈の越えた先にあるレガイア大陸東部には、シラッドの故国があった。
山頂付近に視線を置いていると、視界の上で、ふわり、と黒い影がよぎった。
何かと思い空を見上げると、一羽の鷹が雄々しく羽を広げ滑空している。
鷹は風に身を任せ漂ったり、片翼を垂らしすぅっと斜めに降下したりと、気ままに空を満喫していた。
一連の動きは躍動的で、自由を連想させるには十分すぎた。
思わず見入ってしまう。
けれども鷹の自由な振る舞いは、地に縛られ、血に縛れている自分自身を嫌がおうでも意識させた。
そんなシラッドの気持ちなど露知らず、鷹はひとしきり空を旋回したあと、白竜山脈の頂の方へ飛んでいってしまった。
鷹は次第に小さな黒点のようになる。
それをシラッドは、目を細めながら見送っていた。
(――国には戻らぬと決めたのに。女々しいな)
そんな感慨にふけっていると、今度は視界の下で黒い人影が見えた。
ゆっくり視線を地に戻すと、なだらかな斜面が平地と交わる場所に、もじゃもじゃ頭の大男がいる。
バラルだった。
シラッドは完全に体を起こし、斜面をそろそろと登ってくるバラルを迎えた。
「おい、色男。昼間から黄昏れやがって!」
バラルが大声で言う。
おそらく地声なのだろうが、体に劣らず音量がデカイ。
「なぁに。いつでも黄昏れて良いのが色男の特権さ」
シラッドはキレのない台詞で応える。
「何だよ、覇気がねえな。それじゃ張り合いがねぇぜ」
バラルは肩をすくめる。そしてシラッドの横まで歩いてくると、ドカッと不作法に座った。
「んなことより、もう契約は済ませたのか」
「いや、まだだ」
「おいおい! まだなら、ここで油売って場合じゃねえだろうが」
至極まっとうなバラルの言葉に対しても、
「まあな」
とシラッドは力なく返す。
乗り気じゃないのが、ありありとにじみ出ていた。
「おい、しっかりしろよ。そりゃ、オメェの性格なら今回の戦が気乗りしねぇのは分かるがよ。仕事は仕事。しっかり割り切っとけよ」
アラトリア帝国とグラン王国の戦は、すでに決着がついていると言っても良い。
普通ならグラン王国側から降伏宣言をしている状況である。
だが、グラン王国はアラトリア帝国側の降伏要求を拒み続けている。
アラトリア帝国にも面子がある。
降伏を受け入れないのならば、会戦に踏み切るしかない。
現在の戦力差を考えるなら、それは残党狩りに近い。
一方的な展開になるのは火を見るより明らかだった。
「……まあ、確かに無理やり駆り出された兵士を倒すっていうのは気が乗らねえよ。ただ、俺らは傭兵だ。そんなおセンチな気持ちを持っていたら、いつか死ぬぜ」
「……ああ。そうだな」
バラルの言葉に異論はない。
が、シラッドの放つ声にはやはり覇気がなかった。
「――だったらシャンとしやがれ!」
バラルは、ぴしゃりと叱責する。
ただ、声に怒気は含まれていない。
バラルらしい気遣いだった。
そうはいっても、お互いややバツが悪くなり、しばらく言葉はなくなった。両者とも何ともなく空をみたり、頭を掻いたり、自分の武器で遊んでいたりしている。
どこかまごまごしている中、沈黙を破ったのはバラルだった。
「……戦後に、故国に帰るってのは考えてねえのか」
「お前の実家に世話になるっていう話もあるんじゃないのか」
「茶化すなよ」
バラルは真面目な顔で返した。
「さっき、その斜面の下でオメェを見つけた時。正直、声を掛けるべきか迷っちまったよ」
「どうしてだよ」
「そりゃ、オメェ。自分じゃ気付かなかったかも知れねえけど、スゲェ寂しそうな目で白竜山脈の方を見ていたからよ。『ああ、コイツは国に何かを置いてきたのかもな』って思ったわけよ」
だから何か声を掛けづらくてよ、とバラルは口にした。
「……」
シラッドは心臓をきゅっと掴まれた気になり、上手く言葉を出すことができない。
シラッドが無表情のまま口をつぐんでいると、バラルは、よし、と意を決したように立ち上がり、シラッドの方を向いた。
「シラッド。おそらく今じゃねえと聞けねえから聞くけどよ……」
何だ、とシラッドは短く言う。
「――オメェ。皇族か貴族出身のモンだろ」
全くもって、単刀直入な問いだった。
シラッドは内心、唐突すぎる投げかけに動揺を覚えた。
一拍ほど間をおき心を整えたあと、バラルをすっと見上げる。シラッドを真っすぐ見据えるバラルの目には、興味本位といったものはない。
単にもう少し戦友のことを知ろうとしている、気の良い男の目をしていた。