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狼を狩る者  作者: 丙子
2章 会戦
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2章2話

 緑一色に埋め尽くされた平原が続く。

 視線の先には、なだらかに盛り上がる丘。

 カリナは愛馬の鞍上あんじょうで揺られていた。

 馬の手綱を引く者の腕が良いのか。揺れは規則正しく、乗り心地は悪くなかった。


(やはり、怒っているのかしら)

 さきほどまで行われていた軍議の顛末を思い返しながら、馬上から手綱を引く者をちらりと盗み見る。

 馬上からは男の後ろ姿しか見えない。戦のためか髪を結っている。結われた後ろ髪は一本の黒筆こくひつのように天を突いていた。

 後ろ姿から察するに、やはりどことなく怒っているように思えた。


 手綱を引く東方人――シラッドが従者のような真似ごとをしているのは、天将軍オーランの差し金だった。

 オーランは軍議が終わるとすぐシラッドを呼び止め、命じた。

「近衛兵であろうとお主は新兵。学ぶことも多い。――ふふん。まずはカリナ総長の御馬を引くという大役を務めてみよ」

 そう言うではないか。

 カリナは内心、シラッドがおこりだすのではないか、と心配した。

 けれどカリナの心配もどこ吹く風で、シラッドは淡々と命じられた職務を遂行している。事情を知らない者にしてみれば、本当の従者のようにすら見えるほどそつがない。

 手綱引く所作は滑らかで乗り心地は悪くない。いやそれどころか、今まで経験したことがないほど心地がよかった。


(怒って、……いないのかしら)

 一瞬、そんな思いが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。やはりどう考えても怒っているはずだろう。あの軍議の仔細を知る者としては、それは疑いようもない。

 なぜなら目前の東方人は、ある種、生贄スケープゴートにされたも同然だったからだ。


  * * * * * * * *


 アラトリア帝国軍の司令部はグラン王軍との決戦地を、キエナ大森林内、もしくは森林を抜けた先のグラン王国領内と考えていた。

 グラン王国軍の主力である弓兵部隊を壊滅しているのだ。同国に余力がないのは一目瞭然であり、その後の展開は至極明瞭だった。

 アラトリア帝国側は、ただ踏みしだけば良い。先の戦いでは騎士や騎馬の多くを失ったが、いまだ主力である騎兵隊の精鋭は残している。それに兵数で勝っているのだ。必要なことは編隊を組むことと、作戦指針を設けることくらいだった。

 対するグラン王国側が置かれた状況は悲惨だった。どうやって死守するのか。どこに防衛線を張るか。寝る間も惜しんで、あらゆる可能性を熟慮しなければならない。

 ひとつの悪手が、そのまま国の滅亡に直結しているのだ。地獄のような苦しみの連続だろう。

 そして常識的に考えれば、グラン王国は地の利を活かして守りの陣を敷くしか残された道はない。どの道を選んでも薄氷の上を踏み歩くには変わらないが――


 軍人でなくとも分かるほど、両国間の置かれた状況は絶望的に大きな隔たりがあった。

 そのためアラトリア帝国軍の将軍をはじめ末端の兵士までもが、勝利の美酒に酔いしれるのも無理からぬことだろう。

 ――この戦は、もらった。

 そんな空気が軍内に充満していた。


 そうした折、アラトリア帝国軍の斥候兵が、司令部の面々に偵察結果を持ち帰ってきた。

 なぜか斥候兵の顔は白く、どこか悲壮感もたずさえていた。覚悟を決めたように斥候兵が報告を行う。

「報告。グラン王国軍の数はおよそ二千。布陣はキエナ大森林を背に横列陣形。密度は薄く、およそ三列。――なお司令官は、不在っ」

  厳冬期の湖水を思わせる冷水が司令部一同に浴びせられた。それほど斥候兵の報告内容は想像を絶していた。

 

 とうてい信じられる内容ではない。

 実際、報告を初めて聞いた段階では誰ひとり信じなかった。それどころか。将軍のひとりが斥候兵に激昂し、職務怠慢罪で裁こうとする騒ぎになったほどだ。

 ただ繰り返し問い正しても、斥候兵の報告は変わらない。次第に誰も何も言わなくなった。報告内容を正とすることを、渋々だが受け入れたのだ。

 そして状況整理と作戦見直しのため、すぐに天幕が張られ軍議が始められた。


  * * * * * * * *


 どう考えても異常――そう、報告内容のすべてが異常だった。

 背水の陣しかり、百歩譲って森を背に布陣することはまだ分かる。しかし。総勢一万の軍勢で大挙するアラトリア帝国軍に対して、二千の兵による横列陣形は理解に苦しんだ。

 ただでさえ兵数で劣っているというのに、わざわざ隊列を薄くするなど馬鹿げている。騎兵による突撃で「好きな場所から無残に喰い破って下さい」って言っているようなものだ。

 自殺行為という言葉すら生温い。自ら断頭台に参列するのに等しく、まるで死人の山を築くためのような布陣だった。

 それだけではない。グラン王国軍司令官の不在。不明ではなく不在ということは、皇族が戦場に立っていないことを意味する。この事実は司令部一同を半狂乱させた。

 アラトリア帝国だけでなく、他国も、伝統的に司令官は皇族が担うものだった。例外はない。理由は単純である。戦争とはつまり自国の民を死地に追い立てるのだ。

 皇族としての責務、責任の所在、士気を維持する手段、などは明確にしておかなければならない。

 それに一種の欺瞞ぎまんではあるが、旗振り役が皇族だからこそ、兵たちは大義めいたものを感じることができるのだ。国民の支持が高い皇族の場合、その効果は一層大きいものになる。

 それをあろうことか。グラン王国の皇族はないがしろにした。ことはグラン王国だけに留まる話ではない。アラトリア帝国への侮辱と同義である。

 さらに言えば、戦場に司令官がいないということは、兵たちが自分の意志で退却することができないことを意味する。


 憤怒の念がカリナの体中を駆け巡った。あまりの怒りに手の震えが止まらない。声も自然に荒げてしまう。

「馬鹿なっ! 皇族としての責務を放棄するなど一体何を考えている! それに兵をただ、――ただ横に並べるだけだなんて」

 信じられない……と最後は消え入りそうな声になった。

 司令部一同も険しい顔をしていた。


 けれども、理解できない事態に嘆いている場合ではなかった。今は戦争中である。司令部としては何か指針を示さなければならない。

 異常な事態に軍議が紛糾すると思われたが、冷静に考えれば、注意しなければならないことは一点のみだった。

 グラン王国軍が罠を仕掛けているかどうか。その点につきた。

 グラン王国王都へ至る道程にあるキエナ大森林、前代未聞の戦術の採用。その部分を考慮すれば、十中八九、何かしらの手は打っているだろう。

 ただ、土台、戦力差があり過ぎるのだ。

 司令部の総意としては、

「いかなる罠を講じても所詮付け焼刃。我が軍が誇る騎兵隊で蹴散らせば良いだけのこと」

 そう、まとまるのは当然の帰着だった。そのため軍議自体にはそれほど時間が取られなかった。

 問題は別のところにあった――


 進軍作戦を実行するにあたっての責任の所在。それとキエナ大森林への斥候。その二点を誰が負うのか、ということである。

 罠を仕掛けられる公算は高い。が、内容が分からないため有効な対策が思いつかないのだ。被害の規模が予測できないことも二の足を踏ませた。

 本戦はすでに勝ち戦である。誰も彼も、わざわざ自身の死ぬ確率をあげるつもりはないだろう。それに後々、責任を取らされる羽目になりそうな火中の栗を、誰が好き好んで拾うというのか。

 暗雲とした空気が天幕内に立ち込めていた。

 出席者一同は雁首がんくびをそろえながら、横目で周囲の出方を気にしていた。

 そんな様子を見ながらカリナは、こんなくだらないことに時間がかかるなんて、と心底辟易していた。

 ならば自身が責任を取ろうと声を発しようとした矢先、隣に控えていたオーランがカリナを制した。何故、とオーランを見やる。

 今後のことをお考えください、と彼の眼は語っていた。

 オーランが言わんとすることは分かる。カリナが皇帝に即位することを望まない輩は多いのだ。今までこれといった失態を犯してはいないのに、わざわざ付け入る隙を与えるのは控えた方が良いという判断だろう。

 理屈では分かるが納得できない。カリナはオーランを鋭く睨む。

 オーランがわざとらしく、やれやれといったしなをつくりながら肩をすくめた。そして思案するような素振りをみせたあと、彼の眼が悪戯気に、そしてそれ以上にらん々と色を放つ。

「伝令兵っ」

「は」

 オーランの呼びかけに、天幕外からすぐに伝令兵が駆けてきた。

「近衛兵特別班シラッドに伝えろ」

「は。して内容は?」

 伝令兵が直立不動のまま尋ねた。

 オーランが短く発する。

「司令室に来い。――以上だ」


  * * * * * * * *


 オーランの呼び出しから、それほどの間もなく黒髪の東方人が司令室に訪れた。彼はいつも通り、やや面倒くさそうな雰囲気をこぼしていた。

 ただ、まとう雰囲気とは異なりシラッドが来てからは、すべてが順調に進行していった。

 グラン王国に関する報告を聞いた彼は得心したように薄く笑ってから、盛大に嘆息する。

 そして一度、カリナとオーランに目配せしたあと、司令部一同に対して流流りゅうりゅうと述べた。

「――僭越ながら進言します。グラン王国の司令部は、正常な判断を下せないほど混乱の極みにあると推察します。しかしそれは、常勝無敗を誇る我が軍の功績によるもの。ならば、矮小な彼の国が弄する小賢しい罠などは恐れるに足らず。――進軍あるのみかと存じます」


 シラッドが一旦区切った。そして――

 司令部一同が、今、最も欲しい言葉を付け加えた。

「新参者である自分が言うのも差し出がましいですが、進軍作戦の責は、自分に負わせてもらえないでしょうか。無論。将軍、上級隊長であるご一同から承認をいただければの話ですが――」 

 一同が内心に秘めた、嬉々とした笑い声が聞こえるようだった。司令部の面々はどうしたものか、と思案しながら互いの顔を見比べていた。

 口火を切ったのは将軍であるヒュームだった。気持ちを逆なでする声に思わずカリナは内心で舌打った。けれども不協和音は流れる。

「――クハハ。厚顔無恥とはこのこと。まさか近衛兵に過ぎない貴公から作戦の提案を受けるとはっ。将軍たる我らに対し、意見ではなく作戦を具申するなど、――愚挙極まる。軍律を理解できていないのか、無謀なのかは判断つきかねるが、いやはや、小心者である私には真似できぬこと」

 ここぞとばかりにヒュームは続ける。

「――いや失礼。傭兵あがりの貴公に正規軍における心得を、そこまで期待するのも酷だったことだけのこと。思わず傭兵隊の癖が出てしまったのだろう。くだらないことすぎるゆえ、今回は不問とする。妄言を吐いたことは気にせずとも、結構である」 

 嫌味がたっぷり含まれたヒュームの言葉に、他の将軍たちも大声をあげて笑う。


 醜悪極まる目前の場景にカリナは怒り心頭だった。

(ならばお前たちが進言してみよっ)

 シラッドが進言している内容は大筋では間違っていない。誰かが切り出さなければならなかったのだ。彼はただ、職位に捉われず代弁したに過ぎないのだ。

 そう考えるカリナにとってシラッドが嘲笑されるのは我慢できなかった。議論すべきはシラッドの身分や職位のことではないはずだ。

 軍における序列はいかんともしがたいが、どうして何も言わないのか。半ば睨むようにシラッドを見据えた。

 彼は意外にも、不機嫌そうな素振りを一切見せていなかった。ただ、冷めた双眸をたたえ無表情な顔をしている。

 シラッドの反応など気にせず、もったいぶるようにしてヒュームが言った。

「ただ、まあ。前途ある若者の無知なる蛮勇には敬意を評したい」

 ヒュームが一同を見回す。

「ご一同、どうですかな。本来なら近衛兵という職位では、到底責任は果たせない。……けれども、私は彼に華を持たせてやりたい」

 まるで物乞いに対して褒美を与えるような物言いだった。

 一同は口々に「無謀な若者への支援も我らの務め」「そこまで具申するなら、いち近衛兵に任せてみますか」など好き勝手に言い放ち、ヒュームの提案に追従する。


 ヒュームをはじめとする司令部の言動にカリナは顔を思いっきりしかめた。女ならだれもが羨むような愛らしい顔に怒りが宿る。

(何を言うかっ!)

 進軍の責任をシラッドにすべて押し付けようとしているだけなのに、司令部一同の振る舞いは傲慢そのものだった。

 もう我慢できない。

 怒りをこれ以上制御できそうにないカリナは、ヒュームをはじめとする愚劣な輩を容赦なく叱責しようとした。


 その矢先である。カリナの言動を封じるように、ぴしゃりと声が響く。

「――ありがとうございます。ご一同の厚意には御礼申し上げる」

 シラッドが受け入れた。承諾してしまったからには、もうあとには引けない。

 どうして、と助け舟を出そうとしていたカリナは困惑した。自身の血が冷えてゆく中、ヒュームが言い放つ。

「ただし、軍を率いることはまかりならん。それと、貴公が戦死もしくは逃亡した場合のことを考慮すると、責任の連帯が必要なってくるのだが……」

 言外に、東方人を呼び寄せたオーランが連帯を負うべきだ、と匂わせている。

 厚顔無恥とはこのことだった。

(愚かなっ。恥を知れ)

 カリナはヒュームをこれ以上ないほど睨む。


 天幕内が静まる中、威厳に溢れた声が幕内を叩く。

「いいだろう。私が責任を持とう」

 オーランの言葉に、ヒュームが満足気な表情を浮かべる。一同はさすがに驚いた様子だった。カリナはもう何がなんだか分からなかった。

 ヒュームが恭しく頭を垂れる。

「……そうですか。オーラン将軍閣下がそうおっしゃるのなら、私からはこれ以上申し上げることはありません」

 ヒュームにしてみれば上々すぎる結果だろう。作戦の責任をシラッドに押し付け、そのうえヒュームが失脚を望む、オーランによる連帯責任も取り付けたのだ。

 思い出したように、ヒュームが演技じみた振る舞いで言葉を吐く。

「ああ、そうですね。蛮勇の意を示した若者に報いると言っては何ですが、キエナ大森林への斥候の任は我が部隊があたりましょう」

 そうして軍議は幕を引いた。




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