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狼を狩る者  作者: 丙子
2章 会戦
13/16

2章1話

 暦は双児月(5月ごろ)になったばかり。

 空は一面、薄い灰色に覆われ、数日前の晴れやかさはない。

 遠くの山々の頂には、重たそうな雲がどっしりと腰かけていた。日中にも拘わらず周囲は薄暗く、流れる風は湿気をはらみ生温なまぬるい。

 グラン王国方面から運ばれる風は、ガルカタ平原に茂る緑々とした草をさらさらと揺らしながら、ひと際高い丘陵で、ふわっと巻き上がった。


 丘陵のなだらかな斜面の下。

 アラトリア帝国軍が、頑強な破城鎚のように、縦に長く端然と整列している。先頭から騎兵隊二千、歩兵隊七千、傭兵隊千となる三列縦隊で、総勢一万にものぼる編成だ。

 騎兵隊は50~100人規模で構成されたくさび形隊形。歩兵隊は10列ていどで組まれた密集隊形。傭兵隊は傭兵各人の裁量に任せていた。その各部隊を等間隔に配置、全体でみると縦列隊形となっている。

 日が昇りきる前の号令一下、アラトリア帝国軍は兵営を発っていた。食糧に事欠かず、連日英気を養っていた帝国兵たちの行軍速度は申し分なく、大地を踏み抜く足取りも力強かった。

 目指す先はグラン王国の王都ハイラット。

 王都はアラトリア帝国とグラン王国を隔てるキエナ大森林を抜けた先にある。両国に通じる道を馬で駆け抜ける時間は、およそ半刻(1時間)。途中、森を横断するように流れる河もある。


 キエナ大森林を抜ける――そう聞いて、一抹の不安も感じないレガイア大陸西部人はいないだろう。実際、軍内でも少なからず動揺が走った。

 キエナ大森林の総面積はレガイア大陸西部の約二割を占め、円状ではなく横長に拡がっていた。

 森の中は日中でも暗い。原生林が天高くそびえ日光がほとんど遮られるためだ。それに人を襲う魔獣も跋扈ばっこしていた。危険な森ということは、みな知っている。けれども人々が忌避するのは別の理由からだ。


 恐れているのは、森の深奥しんおうのことである。

 一説によるとキエナ大森林の最深部には、レガイア大陸西部における最大宗教のマルドゥーク教団が崇める、軍神マルドゥークと同時代に生きたモノたちがいまだ存在しているという。

 神話に近い話、ではある。

 が、いまも人々を恐れさせるに十分な出来事があった。

 500年ほど前のことである。当時のアラトリア帝国皇帝は、教団をはじめとした周囲の反対を押し切り、キエナ大森林の開拓計画を強硬した。記録によると五千人以上の帝国兵を投入している。

 同皇帝はレガイア大陸西部では珍しく、マルドゥーク教団の信徒ではなかった。教団の教えで禁忌とされていたキエナ大森林への人の介入が推進されたのも、そういった事情が要因のひとつと思われる。

 そして、アラトリア帝国がキエナ大森林の深奥へ食指を伸ばした結果――

 開拓隊の全滅。戻ってきた者は、ただのひとりもいなかった。

 その事実はレガイア大陸西部中に、瞬く間に知れ渡った。人外の存在が存在したのか、しなかったのか。真偽は不明のままだ。分かったことはひとつだけ。森の深奥に足を踏み入れたら戻って来れない、ということだけだった。

 人々は森に震撼したはずだ。そのためマルドゥーク教団による教えの範ちゅうを越え、人々の間でキエナ大森林に対する不文律が出来あがる。

 ――キエナ大森林の深奥への介入を禁忌とする、と。


  * * * * * * * *

 兵営を発ってから現在、アラトリア帝国軍はガルカタ平原の丘陵の下で行軍を一旦止めていた。上層部による作戦の最終確認と、騎馬や兵たちの呼吸を整えるための一時休止。

 そのはずだった。

 しかし司令室から何の音沙汰がないまま、もう一刻近くが経過している。工兵たちが司令室の簡易天幕を張った様子からは、作戦の変更を余儀なくされたか、もしくは不測の事態が起きたことは明白だった。

 

 兵たちがしびれを切らせ隊列を乱さぬよう「列を乱すな」「馬を静まらせておけ」などと、さっきから隊長や下士官たちの声がせわしなく飛び交っている。

  司令室からの伝令もなく部下からの不平不満を一身に受けるのだ。こういう状況でのまとめ役は、激務の一言に尽きる。

 そんな隊長たちの慌ただしさを尻目に、シラッドは待ちくたびれたように大きく息を吐く。実際、飽き飽きしていた。

 シラッドが所属する近衛兵隊は、騎兵隊とともに先頭集団に配置されている。さすがに正規の訓練を積んだいるだけあり、先頭集団にはそれほど乱れがない。

 一方、後方に配置された傭兵隊はひどい有様だろう。その光景が目に浮かぶようだった。シラッドがひとりほくそ笑んでいると、ぐりぐりと肩が押された。

 目を向けると、黒馬が自分の鼻先でシラッドの肩を小突いている。つい数日前にあてがわれた雌の軍馬である。すっかりなついた今は、シラッドに寄り添うように控えていた。

 牝馬ひんばも暇なのか。さきほどから、しきりにじゃれついてくる。

 シラッドは邪険そうに構う。 

「分かった、分かったから。シュリ、少しおとなしくな」

 制止の声もそれほど効果がなく、シュリと名付けられた牝馬は遊ぶのを止めない。

 やや辟易しているところへ野太い声がかかった。

「おうおう、色男。昼間から見せつけやがって」

 声の方に顔を向けると、ごわごわした髪の毛がすぐ目についた。案の定の人物だった。

「――うらやましいか、熊」

 シラッドはにやりと笑う。

 ふん、と鼻を鳴らしながらバラルが近づいてきて、黒々と艶めく牝馬のたてがみを撫でる。

「シュリ。気をつけろよ。この男は女たらしだからな」

 そう声を駆けられた牝馬が首を動かしながら、今度はバラルにじゃれついた。

「ガハハ。オメェはホントに良い女だな」

「ハハ。わがままなシュリが俺以外に愛想を振りまくのはお前くらいだよ、熊」

 シラッドは声を上げ、どこか嬉しそうにシュリの首を叩いた。

 わがままと言ったが、そうではないことをシラッドは知っている。この牝馬は本当に頭が良い。人を見るのだ。信用が置けない人間には絶対に心を開かない。

 これまで。この黒馬を手なづけようとした帝国騎士たちはみな、シュリを単なる道具のように扱おうとした。誇り高いシュリにとっては耐え難い屈辱だったろう。

 一方、バラルの振る舞いは帝国兵たちとは対照的だった。

 シュリを一目見るなり「おうおう。こいつは別嬪さんだっ」と豪快に褒めあげ、淑女を扱うように振る舞った。宮廷作法を知らないバラルの我流ではあったが。

 それ以来、バラルにも自然となつくようになった。

 例えるなら、シラッドが恋人で、バラルが友達か――


「へへ。昔から動物には好かれんだよ、俺は」 

 熊のような大男が屈託なく笑う。

 その笑顔を見ながら、動物は人間の性根が分かるからな、とシラッドは思った。実際のところ、バラルは竹を割ったような性格をしていた。愛玩物や物のように扱わずに、動物と真っすぐ向き合うことは案外難しい。それをバラルは地でやっているのだ。

 そのことはシラッドに対しても言えた。

 幼い時分より、良くも悪くもシラッドは他人より突出していた。そのため他人が自身に向ける敬意や警戒感といったものを常に味わってきた。正直辟易している感はある。裏を返せば、シラッドが望んだとしても対等な関係とは成りえなかったのである。

 ところが目前の大男は、これまでそんな素振りを一度も見せたことがない。シラッドが皇族の者だということを知ったあとでもだ。

 シラッドにとって、友人と呼べる人間はバラルくらいのものだった。いや――

 最近になって、変わった女が現れたか。


 そんなことを思いながら、シラッドはバラルを野次った。

「お前の良さを分からない人間の女なんて気にすんな」

「……ちっ。色男は言うことが違うねぇ」

 特に気分を害した様子もなくバラルが返してきた。

 一拍置いたあと。

 シュリに手を添わせながら、ひどく真面目な声でバラルが続ける。

「……雇用契約のことだけど、よ。――ありがとな。オメェのおかげで胸を張って実家へ帰郷できそうだぜ」

 つい先日のことである。近衛兵付きの傭兵として、シラッドはバラルと雇用契約を交わした。カリナとオーランの両名からは「好きにして構わない」という言質げんちは取っている。


「礼を言うのは、まだ早いぜ」

「ああん?」

 バラルが間の抜けた声を出した。

「俺と雇用契約を交わしたんだ。楽できると思うなよ」

 目前の大男が、げんなりしたようにこぼす。

「……つまり、あれか。遊撃隊の時みたく、オメェにこき使われるってことか」

「ああ、そうさ。嬉しいだろ」

 シラッドは口端を吊り上げた。

 それに対しバラルが盛大に口を尖らせた。

「ありがたくて涙が出るぜっ」

「ハハ。期待してるぜ。その分は報酬は弾んでやるよ」

 報酬の話が持ち上がった矢先、バラルが神妙な顔になる。

「……その報酬だけどよ。いくら何でも貰いすぎじゃねえか」

「気にすんな」

 何でもないようにシラッドは言うが、

「いやだけどよ。しがねえ傭兵の俺に、軍が騎士隊長の除隊金に匹敵する報酬を出すとは思えねぇ」

 そうバラルは食い下がる。

 バラルの問いには答えず、シラッドは黙した。

 何も答えないシラッドを訝しがるように見ていたバラルが、思いついたように声を上げた。

「――あ。オメェ、自分の報酬をそっくり乗せる気だな」

「さて、な」

「おい、シラッド。そこまでするんじゃねえよ。オメェに面倒かけるつもりはない。ちゃんと正規の金額で報酬を寄こしやがれっ」

 本気で怒ったような剣幕でバラルが声を張り上げる。シュリが驚いたようにシラッドとバラルを見比べた。


 シラッドは牝馬の首を優しく撫でながら、バラルを見ずにつぶやく。

「……戦友への、餞別だ」

 いつもの軽口は出せなかった。シラッドは自身の不器用さについて内心で苦笑した。

 友人に対する感謝と惜別の意を、金であらわすことが情けないことも承知している。しかし何かしてやろうと考えると、やはり金が一番良い気がした。

 互いに言葉もなく、しばらく間が空いた。

 そうして。

 バラルがあきらめたように吐きだした。

「――ったく。そう言われたら何も言えねえよ。仕方ねぇな。遠慮なくもらっといてやるよ」

「ああ、そうしておけ。もう戦場で会うつもりはないからな。いつかお前の実家に顔を出す。その時までには嫁の一人でも作っておけよ」

「オメェってやつは、最後まで」

 何ともいえない顔でバラルが笑う。

 シラッドは、ここぞとばかりに水を差した。

「まあ、戦場で戦果を上げるより嫁探しの方が苦労しそうだけどな。ええ、熊」

「うるせえよっ」


 戦前いくさまえに笑い合う両者を、周囲の騎士たちが冷めた目で見ていた。その眼は、傭兵紛いの人間は戦に臨む心構えも知らないのか、と侮蔑している。

 騎士たちにしてみれば戦前に談笑するなどは考えられない。騎士たる者。戦前に芽生える恐怖に克己こっきし、命を散らす覚悟を胸に宿さねばならない。

 彼らを縛る騎士道である。盲信的と呼べる愚直な在り方だった。

 けれど、違う。

 一瞬の間に数々の命が露と消え去る戦場において、必要な心構えは死への覚悟ではない。生への執着である。実際、シラッドには死への覚悟などは毛頭ない。おそらくバラルにもないだろう。


  * * * * * * * *

 周囲や後方を見まわしながら、バラルが感じたことをそのまま述べる。 

「……縦列隊形を敷くとはな」

 バラルの言いたいことは分かる。アラトリア帝国軍は、ここまで大規模な縦列隊形を採用したことはない。

 従来通りなら、幾重にも列をなした歩兵隊を中央に厚く備え、両翼に騎兵隊を配置する。主力である騎兵の機動力を戦場でいかんなく発揮するために、まず歩兵隊で敵の突撃を軽減する必要があるからだ。その上で状況判断し、敵陣ど真ん中に突撃して陣形を乱したり、敵陣中腹から喰い破ったり、と縦横無尽に駆けまわる。

 それがアラトリア帝国の常勝戦法だった。

 バラルの問いにシラッドが答える。

「さっさと決着をつけるつもりなのさ」

「うん? 何だシラッド、随分と訳知ったような言い方じゃねえか」

 おや、とした顔をバラルが浮かべていた。

「まあな。カリナ殿下、――ああ。この場合総長か。で、そのカリナ総長と話したからな」

「――ほう。んで、あの綺麗な姫さんは何だって」

「『騎兵隊で敵の本陣にまで一気に駆け、敵の司令官に降伏を呼びかける』とさ」

 カリナの言を、シラッドはそのままなぞる。

 言い終えると、彼女の凛とした碧眼が脳裏をよぎる。思わず口端を吊り上げた。

 半ばあっけにとられたようにバラルが言った。

「……そりゃあ、随分と青臭い作戦だな」

「まあな。けど――」

 シラッドが続けようとした言葉を、バラルが付け足す。

「ああ、分かってるよ。自国だけなく敵国の被害も気にかけている。――高潔な性根の持ち主じゃねえか」

 バラルの言葉にシラッドは満足気にうなずいた。

「それに別嬪さんとくりゃあ、仕えがいもあるじゃねえかっ。なあ、近衛兵殿」

「言ってろ」

 破顔するバラルを一蹴した。


 バラルと話していると、伝令と思われる若い兵士の声が周囲に響く。

「近衛兵特別班シラッドはどこかっ」

 声が聞こえるやいなや辺りは静かになり、周囲の騎士たちの視線が一斉にシラッドの方に向けられた。みな興味深々といった面持ちだった。

「どうやら、有名人のようじゃねえか」

 ガハハとバラルが白い歯を見せた。

「……みたいだな。嬉しくはないがな」

 シラッドはため息をつきながら、伝令に向けて片手を挙げる。すぐに伝令が駆けてきた。

「貴殿がシラッド殿か」

「ああ」

「そうか。オーラン将軍閣下から言伝ことづてを預かっている」

 シラッドはうなずき、先を促す。

「『司令室へ来い』、以上だ」

 伝令が短く伝えた。

 それだけかよ、という顔でバラルが聞いてきた。

「シラッド。何か覚えはあんのか」

「特に思い当たる点は、ない」

 短く答え、まあ察しはつくけどな、と内心で付けくわえた。

「シラッド殿、返答は」

 伝令は急いた様子だった。

「……承知した。司令室に案内してくれ」

 シラッドは嘆息混じりにバラルに言う。

「熊、シュリを頼む」

「おう」         

 


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