Drunk It [Poison] Blood 18
「待ってたぜ、アキラ・コウガミ?」
なぜか警備員が1人も居ない薄暗いロビーで、月光を差し込ませる窓を背後にして立っているその男は、晶に気付くなり恭しく頭を下げて見せた。
決して小さくは無い巨大な鳥の彫像の傍らに立ってもまだ大きいと分かるその体躯に、その男が誰であるか晶は気付かされた。
「……終業時刻はとっくに過ぎているわよ、ブルームス君」
「そうつれねえこと言うなよ。お前に見せたいものがあってずっと待ってたんだぜ、こっちは?」
メダイの鎖を引き千切られた時に見せた、獰猛な獣のようにギラついた青い瞳を覗かせているレイ・ブルームスがそこに居た。
その出で立ちは晶が買い直させたスーツではなく、ダークブラウンのミリタリージャケットとと黒いカーゴパンツという昼間とは明らかに違う格好だった。
「どこか星が見える所にでも連れて行ってくれるのかしら? まあ、お断りだけど」
「黙れよ、お前の意思なんか関係ない。ただ俺が連れて行くその場所にお前とこの会社、そして世界の運命を決めるものがある」
あまりにも荒唐無稽なその話。しかしブルームスの背後に何かが居ると確信を持ち始めている晶には、それを笑い飛ばす事が出来なかった。
ブルームスは戸惑う晶の横を擦れ違い様に、そのバリトンボイスで耳元で囁いた。
「反論は許さない、黙ってついて来い」
その言葉に晶は慌てて、暗い通路の闇に紛れていくブルームスの金髪を追い駆ける。
10mほど走って晶はようやくブルームスの傍まで辿り着くも、おそらく身長が20cmほど違うブルームスに置いて行かれないようにするために早足を余儀なくされていた。
――いつか、じゃなくて早めにジム通いでもしておくんだったわね
疲労だけではない足の震えを誤魔化すように、晶は深いため息をついて胸中で毒づいた。
暗闇の中で点在する非常灯で照らされた案内板は、2人が歩んでいる道が社屋に併設された口上へ繋がっている事を示していた。
しかし工場は昌明達のような上役のIDか、開発部部長のIDが無ければ入る事は出来ない。
やがて辿り着いた工場へと続く扉の前で、ブルームスがどうするのか静観を決め込んでいた晶は重大な事実に気付かされる。
社長室はいつも通りだった。廊下の非常等は点いていた。エレベーターも晶は使っていないが動いていた。
しかし電子制御されているはずの扉のLEDが開錠でも施錠でもなく、ただ消えているのだ。
もし停電しているというのであれば、扉は秘密保持のために予備電源で自動的に施錠されるはずなのだ。
ブルームスは両手でLEDの点いていない扉をレールに沿ってスライドさせる。
開かれた扉の向こうには眩いほどの照明に照らされた工場へと続く真っ白な渡り廊下があり、24時間体制で動かされている製造ラインの音が遠くに聞こえる。
電気は通っている。しかし何者かによってロックが無効化された。
その事実に晶が眉をしかめていると、ブルームスはそんな晶を無視して渡し廊下を歩み出した。
「分かるか? もう敵に侵入されてる。あの鍵は潜入者にどうにかされちまったんだろうよ」
「どうかしらね。私を待っている間にそれくらい出来たんじゃないの?」
あくまで不敵に、あくまでシニカルに、あくまで心を許さずに。
疑ってかかり、そして守らなければならない対象から知り得たその在り方。
晶には滑稽と思われようと、無様と思われようとそうして立ち向かっていくしかもう道は無いのだ。
「俺はこの会社の上役と話をつけてここに居る。小細工をする必要なんざねえんだよ」
「巽さんとじゃれ合ってたのも上役とのディスカッションって訳かしら?」
「黙れよ。お前は今、法の外に居るんだぜ? 死にたくなけりゃあバカみたいに俺の後について来て結果を見届けてればいいんだよ」
機密性の高いガラスの向こうに見える、工場のラインとこちらの様子に気付く様子もない社員達を横目に、晶はブルームスとの距離を保ちながらその後をつける。
かつてないブルームスの態度に怯えながらも、晶はシニカルな表情でそれを隠しながら思索する。
晶の予想通り昌明とブルームスには繋がりがあり、晶は昌明にとってブルームスが信用に値する存在かどうかを調べさせられていた。
しかしブルームスの言う、セキュリティを突破した"敵"が晶には分からない。
それがフィルマン・ボヌールなのか、前を歩いているレイ・ブルームスなのか、それとも守ってやらなければならないと決意した怜・此花なのか。
晶がそんな事を考えていると数m先を歩いているブルームスが突然立ち止まり、非常灯が点いていない非常口の扉を開けた。
「どうしたの、逃げ出したくなったのかしら」
「地下に続いている非常口、そんなものがあるって知ってたか?」
工場に関しては総合受付までしか行った事がない晶はその言葉に考え込むも、社屋を含めて鴻上製薬は地下のフロアを建設した記録などない。
しかしそのささやかな証明に照らされた非常口の扉の向こうには、下へと続く階段があった。
消えた非常灯は近付くなという事を意味するサインで、消えたセキュリティのLEDは潜入者がここに居るということを2人に教えていた。
「さてここからはレディファーストだ、先に行ってもらうぜ」
「日本人の女全員がそう扱われれば喜ぶと思うわけ?」
「少なくともお前以外の日本人の女は喜んでいた。さっさと行け」
ブルームスはそう言いながら、ミリタリージャケットの懐から拳銃を取り出した。
きっと叫ぼうが何をしようが助けは来ないと理解し、結局身を守る為のものは1つとして手に入れられないまま人生の岐路を晶は迎えてしまった。
晶は観念したように肩を竦め、コートのポケットに手を入れて金属で出来た階段を下り始めた。
前方はあまりにもささやかな光に照らされた階段、背後には合金製の殺意を持った大男。
コンクリートで作られた階段をパンプスの靴底で叩きながら、晶はこの先に起きる事を覚悟してコートのポケットに入れてあるスティック状のレコーダーのスイッチを入れる。
もし自身が殺され、遺体で見つかっても誰かが真実へと辿り着くだろうと信じて。
――わたしが死んだら悲しんでくれるかしら
すっかり変わってしまった昌明。
もう会うことは出来ないだろう日向子。
そして部下としてではなく男として見てしまった此花。
そんな悲劇のヒロインぶる自身に呆れたように晶がため息をついたその頃、階段に終わりが見えた。
最後の一段を下りた晶はその場で立ち止まろうとするも、銃身で背中を強く押されて薄暗い地下の廊下へと押し出された。
「女の扱いがなってないんじゃないかしら?」
「日本人の女は男を立ててくれるんだろ? 行け、そのまま突き当たりの扉の向こうに奴が居る。お前はこの会社を守り、俺は報酬と出世コースを得る。お互いのために頑張ろうじゃねえか」
憎憎しげに呟く晶にブルームスはあくまで強行的な姿勢を崩さないまま、何も持っていない左手で晶の背中を突き飛ばすようにして歩かせる。
その巽とは明らかに違う自身の扱いに、ブルームスが言っていた法の外に居るという言葉を晶は理解させられる。
サラトフのように、ニュースで見た瓦礫や死体に溢れた街並みのように、晶が別世界に感じていたそこに晶は確かに今、存在している。
観念したように晶が歩き出したその廊下は地上の廊下とは違い、清潔感や多少成金趣味に偏っている装飾など何1つも無く、遥か眼前に見える扉と等間隔に点在する明かりだけしかなかった。
暗闇に押し込められるような息苦しさを感じながら、晶は無言のまま辿り着いた扉の前で立ち尽くす。
「開けろ、ロックは奴が解除しているはずだ。言われなきゃ分からないのかよ、クソが」
そのあまりにも粗暴さが剥き出しになった言葉に、晶は深いため息をついて扉をレールに沿ってスライドさせる。
扉は決して軽いとは言えなかったが、それでも晶は体重を掛けてなんとか扉をスライドさせて見せた。
しかし肩で息をする晶の様子に構う様子も無く、ブルームスは顎でその扉の向こうへ入るように促す。
もう逆らう事が出来ないと理解してしまった晶は、深呼吸をして息を整えながら扉の向こうへと踏み出した。
――ブルームス君が言う"奴"にして"敵"がここに居るって訳ね
そう胸中で呟いた晶の視界には、社屋と工場の近くにあるとは思えないほどに広く浮かんであり、左右には数十列と並ぶ空のプラント達と、それらに囲まれるように存在している赤く濁った液体で満たされた1つのプラントが見えていた。
その異様で不気味な有様に顔を引きつらせていると、背後のブルームスが大声で叫び始める。
「コソコソしてねえで出て来いよ! 逃げ道は"俺達"が塞いだ! お前もうオシマイだ!」
――そんなことして出てくるはずがないでしょう
両耳に手を当てた晶は信じられないとばかりの視線をブルームスに向けるも、ブルームスは拳銃を油断無く構えて晶に目もくれない。
しかし晶は出世と報酬に固執しているブルームスが、まるで自身を仲間のように扱っていた言葉に疑問を感じる。
"奴"という言葉から潜入者が1人であると晶は把握していたが、その1人がブルームスと明らかに非戦闘員である晶を見て投降するとは晶には思えなかった。
もしそれが単機でサラトフの施設を破壊して逃げ遂せた、グリーンアイドモンスターであるのならなおさらだ。
「……なるほど、そう言うことかよ」
そう言いながら暗がりから現れたのは、ダークグレイのスーツとその上に黒いナポレオンコートを羽織っている男。
その予想と反していとも簡単に姿を現したその男は、髪を下ろして、眼鏡を外しているが、その自身にとって掛け替えの無い人物を晶は知っていた。




