Drunk It [Poison] Blood 11
始業時間である9時から3時間見続けているデータベース化された出納記録、それから目を逸らすように天井を仰ぎながら晶は深いため息をついた。
――どうして数字が合わないのかしら
最初は以前の会議で取り上げられていた、開発部の原材料の入手時に水増し請求が発生しているのではないか、という案件に関しての調査だった。
経理部は開発部の提出した決しては少ないとは言えない金額に嫌疑をかけ、開発部はそう言った嫌疑を掛けてきた経理部の調査を拒否し、そして最終的にその調査は第1総務部に預けられる事になった。
錠剤からナノマシンまで開発をしている開発部の予算が多くなってしまうのは理解できるが、既に錠剤、水薬、そしてナノマシンの生産ライン、そして薬用植物生産プラント、試薬醸造プラントの増設を議会に通している開発部の予算が他の部署を切迫し始めるのを恐れた訴え。
経理部長であるフィルマン・ボヌールはそうは言っていたものの、晶はその裏に何かがあるのではないかと疑いを掛けていた。
ボヌールは以前起きた不明瞭な請求を許可していた人物であり、一部の不正金を握っている疑いを掛けられている人物なのだ。
――ダメね、どういう事か全然分からないわ
水増し請求などの使途不明金の調査をいくつも繰り返してきた晶にとっても、未だ経験した事のないその状況。
――どうしてお金が増えているのかしら
出納記録に残っていない2000万円、その少ないとは絶対に言えない金額がなぜ記録に残されていないのか。そしてこの金の出所は、その意味は。
そして水増し請求などの不正請求の嫌疑からの調査は不明金の調査に変わり、フィルマン・ボヌール経理部長は訴訟者から容疑者へと変わっていた。
――どこかの聖人君子が横領した金を会社に返した、なんて美談にもならないわね
少ない分には大問題だが、多い分には気持ちが悪い。それが出所の分からない金であればなおさらだ。
脳裏によぎる金髪のフランス人の経理部長の顔に顔を引きつらせながら、晶はシャツの中に隠してあるメダイをシャツの生地の上からなぞるようにして指先で撫でる。
結果としてボヌールが嫌疑を持っていた不正請求はデータベース上では確認が出来ず、代わりに不明金が2000万円とボヌールの不正請求幇助の疑いが浮き彫りになった。
――手書きで報告書を仕上げて提出するしかなさそうね
第1総務部のセキュリティと自身のそう言った知識に自信が無い晶は、デスクの引き出しを開けて使う機会が余り無かったレポート用紙を取り出す。
もし報告書をPCで製作してそのデータや晶がボヌールに疑いを持っている証拠がボヌールに見つかってしまえば、ボヌール自身が握っている証拠と晶自身の身に何が起こるか分からない。
しかしボヌールが無実だった場合、いずれ経理部へ異動させようとしている此花の心象も経理部にとっては良い物とはならないだろう。
――ならいっそ、このままずっと第一総務部に――
晶は考えてしまったその可能性を頭を振って切り捨てる。
自分の都合で可愛い部下の将来を奪っていい訳がないのだから。
1部の上役にとって第1総務部は、潜入者の炙り出しをするためだけに存在する部署でしかなく、一切の成長を求められていない。
晶は望んで第1総務部の主となったが、もし此花が鴻上製薬で一生働いていくつもりであるのであれば、将来に展望が無い第1総務部に居るべきではないのだ。
――疑うのも仕事だから、で納得してくれれば良いのだけど
そう願いながらも分かり合える見込みはないと理解している晶が思わず両手で顔を覆っていると、社内に昼休憩を告げるチャイムが響き渡る。
報告書は午後に仕上げようと晶がPCの中断処理をしていると、此花が壁に掛けている黒いナポレオンコートを手に取るのを視界の端で捉えた。
ペンをデスクに投げ出した晶は、慌てていつもより重い鞄と灰色のトレンチコート掴んで第1総務部室を出て行く此花を追い駆けた。
その様子に買ったばかりのベルトをいじっていたブルームスは呆然とし、そんなブルームスに寄り添っていた巽は信じられないような物を見たような顔をし、花里は暖かな視線でそれを見送っていた。
その後で恥ずかしさでどうにかなってしまうであろう事態に晶は気づいていなかったのだ。
廊下を進み、階段を下り、2階の社員食堂に併設された売店のそばまで辿り着いた時、晶はようやく此花に追いついた。
「……昨日……約束は取り付けた……はず、よね?」
「……すいません、忘れてました」
気まずげに肩を竦める此花の様子に嘘はないと晶は理解するも、運動不足の体は息を切らし方を大きく揺らしていた。
昨日晶は礼をするために昼に約束を取り付け、此花はそれに確かに応えていた。
「わたしを女扱いしろとは言わないけれど、女との約束をすっぽかすと面倒な事になるわよ?」
「肝に銘じておきます。お詫びと言っては何ですが、飲み物でもご馳走させてください」
「……ペットボトルのお茶をお願い」
打算を秘めた注文をした晶は売店で飲み物を購入している此花を余所に、手早く灰色のトレンチコートを身に纏う。
そして息が整った頃に両手にペットボトルのお茶を1本ずつ持った此花の手首を、箸を使う際に邪魔になるため手袋をつけていない手で手首を掴んだ。
晶の手は掴んだ此花の腕に硬い金属質を感じるも、昨日の今日で此花がアクセサリーを着けてくるとは思えず、それを無視してプライベートガーデンへと歩き出した。
「どういうおつもりで?」
「約束を忘れるようなうっかりした子がはぐれないようにするのは、大人の役目でしょう?」
そう言いながら晶は此花の咎めるような言葉を無視して、プライベートガーデンへ続くガラス張りの扉を開ける。
晴れやかな日差しとは裏腹に冷たい海から吹く風に、晶はマフラーを第1総務部室に忘れてきた事を悔やみながら階段を下っていく。
「子ども扱いしないで下さい。2つしか変わらないはずですよ」
「何度でも言ってあげるわ、若輩者のわたし達にとって2つは結構な差よ。それに2つしか違わないというのであれば、仕事以外もしっかりしたところを見せてちょうだい」
冷静になればスーツだけで過ごせるわけがないと理解出来る気温の中で、昨日文句1つ言わずにコートを貸してくれた此花に胸中で感謝しながらも、晶はそんな様子も見せずに此花の手を引いて昨日のベンチまで辿り着いた。
すると此花は深いため息をつきながらやんわりと晶の手を引き剥がし、スラックスのポケットから黒いハンカチを取り出してベンチに敷いた。
「わたしを女扱いする必要はないって言ったはずよ?」
「部長は紛れもなく女性ですし、つまらない罪滅ぼしです。いけませんか?」
口ではそう言いながらも意趣返しのような此花のそれに、何も言い返せない晶は厚意に甘える事にした。
そして晶は自身の隣に腰を下ろした此花に自身と同じデザインの黒いプラスチック製の弁当箱を渡し、此花は2人の間にペットボトルを置いてそれを受け取る。




