Drunk It [Poison] Blood 8
――記録媒体や通信によるデータの移行をした形跡や、他の部署へのアクセスをした形跡はなし
ディスプレイの向こうに部下達を眺めながら晶はオフィスの自身に割り当てられたPCにインストールされている解析ツールを花里、此花、そしてブルームスのPCに走らせた結果に、当たり前だとばかりに小さく嘆息する。
その解析ツールは第1総務部が発足した当初に作られた物であり、それ以上に優秀なソフトが溢れている現状では時代遅れも甚だしい代物だっだ。
――いい加減新しいソフトを仕入れてもらうしかないわね
そうしてもらわなければ晶の作業効率が上がる事は無く、第1総務部はいずれただの取調室と成り果てるだろう。
そして何より早くいろいろな事を決着をつけて、晶は部下達を他の部署へ移動させてやりたいのだ。
気が利く花里は飯塚という欠員がいずれ出る秘書課へ、数字に強い此花は経理課に晶は推薦を出すつもりでいる。
2人が抜けた後の第1総務部はきっと最悪の労働環境となってしまうが、それでも晶は第1総務部とは名ばかりな部署に2人を縛り付けておきたくないのだ。
そして無断欠勤を続けていた娘を庇いきれなくなった、張・劉専務取締役はついに紅蝶・劉を切捨て、同類である劉が居なくなった事に焦る巽のブルームスへのアプローチは日に日にエスカレートしていった。
――本当に浅ましい限りね
働きたくはない、特別扱いはされたい、顔の良い男を隣に置いておきたい。
そんな意思を露骨に感じさせ、デスクに向かうブルームスにしなだれかかっている巽に、晶は思わずため息をついてしまう。
働きたくないと思う人間が居る事も、特別扱いされたいと思う感情も、顔の良い男を隣に置けるという自己顕示も、巽自身が成長しない限りベニヤ板の張りぼてにコンクリートを塗りたくっているのと同じ事だと晶には思えてしまう。
金だけはあるのだからそもそも働く必要もないだろう、と思うも晶はそれは流石に酷すぎるかと思い直す。
巽の願望だけがこの世の全てではないように、晶の価値観もこの世の全てではないのだから。
――なんにせよ、人員の補充が必要ね
いずれに3人は別の部署へ異動し、1人も在籍し続けるのは難しいため第1総務部の人員は晶だけになってしまう。
その事態を避けなければならないと晶は人員の補充を人事部へ要請を考えるも、巽のような存在や産業スパイの誘いに乗らない存在でなければならないという第1位条件を思い出し再度深いため息をついてしまう。
他の部署に人員の派遣を申し入れて第1総務部を無理矢理維持するか、新しい人員が入るまで巽と2人で第1総務部を運営していくか。
そのどちらを選んでも他の部署へ面倒を掛けてしまうことは避けられないだろう。
――第1総務部が必要な状況になるまで他の部署で働かせてもらう、なんてのは何かの際に第1総務部がそういう場だって言っているようなものだし
もはや打つ手などない。改めて気付かされたその事実に晶が頭を抱えてしまったその時、終業を告げるチャイムが社内に響き渡った。
晶がPCの作業の中断処理をしていると、纏わりついてくる巽を振り払うようにしながらブルームスが晶の席へと向かってきた。
「部長、今日こそ付き合ってもらいますよ」
そう誘いを掛けてくるブルームスに、心からあきれ果ててしまった晶は頭を振ってそれを拒否する。
――わたしを手なずけて鴻上製薬でも乗っ取るつもりかしら
ルックスは並、貯金も人並み以上、そんな自身が人とは違う物といえば鴻上製薬の社長の1人娘であるという事を晶は理解していた。
そして過去にも同じことを考えていた人間が何人も居たが、なびかないどころか軽蔑の目を向けてくる晶に皆が敗れ去っていった。
「巽さんと行ってきなさい。彼女もそれを期待しているはずよ」
見当違いな怒りから自身を睨みつけてくる巽へ手を差し出しながら、晶は嘆息混じりに言う。
今までの経験通りに事が進んでしまえば、今回もまた面倒な事になってしまうと分かっている以上それを避けない理由は無い。
「より多くの見目麗しい女性と仲良くしたいんですよ、俺は」
「汝、姦淫するなかれ。わたしはそういう軽薄な男が大嫌いなのよ」
「……随分と辛辣なお言葉ですね」
「貴重なプライベートの時間を奪う部下にまで上司面するつもりなんてないの」
取り付く島の無い晶にブルームスは思わず苦笑を浮かべ、あまりにも神経を逆撫でしてくるブルームスに晶は何度目かの深いため息をつきながら、胸元のメダイを指先で撫でる。
大柄とも小柄とも言えない晶には少し大きく見える、シャツの襟に隠された銀で作られえたメダイ。
――付き合いきれないわ
そう胸中で毒づいた晶はコートとマフラーと鞄を持って立ち去ろうとするも、ブルームスに自身の腰に腕を回して抱き寄せられてしまう。
突然の事に晶は咄嗟にブルームスを突き飛ばそうとするも、自身よりも20cm以上大きい筋骨隆々の男は晶の細腕ではビクともしなかった。
「それ、この間も触ってましたよね? ちょっと近くで見せてくださいよ」
そう言いながらブルームスは無遠慮にシャツの中のメダイを指先でつまむ。
O Marie, conçue sans péché, priez pour nous qui avons recours à Vous.
(原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉る我らのために祈りたまえ)。
そう刻まれた文字に囲まれるようにマリアが佇んでいる、銀で作られた楕円形のくすんだメダイ。
見る人が見れば安物でしかないそれであっても、自身にとっては何物にも変えられないそれを無碍に扱うブルームスが晶には許せなかった。
「いい加減に――」
ブツリ。声を張り上げようとした晶の耳に届いたのは胸元で鳴る、確かに何かが千切れてしまった音。
そして視線を移した晶の黒い瞳に写ったのは、千切れた細い銀の鎖と、節くれだった指でつままれているメダイだった。
「おっと、すいません。弁償しま――」
何とも思っていないと理解出来るほどに軽いブルームスの口調で紡がれた言葉を、肉を打つ乾いた音が遮った。
「……やってくれるじゃねえか」
容赦なく自身の顔へ右手を振りぬいた晶を見下ろしながらブルームスはそう呟いた。
その呟きはとても小さく、他の人間達には聞こえなかったが、巽は普段とは違うブルームスの様子に、花里は張り詰めだした空気に怯え始める。
しかしメダイを無理矢理取り戻した晶は、挑むように頭上のブルームスの青い瞳を見据える。
今までに無い険悪に張り詰めだした空気が辺りを包んだその時、複数の軽い金属とプラスチックが叩きつけられた音が第1総務部室に響き渡る。
「すいません、ペンケースを落としてしまいました」
そう言って床に散らばったアルミ製のペンケースとプラスチック製のペンを指差した此花は、口角を上げたシニカルな笑みを浮かべていた。
そして霧散した空気感に苛立たしげに舌打ちをしたブルームスは、ようやく晶を腕の中から解放する。
「……以降気をつけろ」
「ええ、先輩もそうなさってください。同じ部署の先輩がセクハラで消えるなんて、笑えませんから」
地を這うようなバリトンボイスで告げた言葉に皮肉を返されたブルームスは、舌打ちを1つと乱暴に閉めた扉の音を残して第1総務部を後にした。
そして残されたのは唖然とする3人と、肩を竦める此花。
「……お、お疲れ様でしたぁ!」
我に返った巽はブルームスに置いて行かれるどころか、相手にもされていなかったと気付き、荷物をまとめ慌ててブルームスの後を追った。
騒ぎの元凶とその付き添いが消えた事で静かになった第1総務部室で、此花は散らかしてしまったペンを拾い集め、花里は渦中の当事者である晶の傍らに心配そうな面持ちを浮かべて寄り添い、そして晶はメダイを両手で握り締めてただ立ち尽くしていた。
しかしメダイに刻まれたマリアは目を閉ざしたまま、悲しみに暮れる晶を見ようとはしない。
「……それ、少し貸してもらえませんか?」
集めたペンを収めたペンケースをデスクの引き出しにしまった此花は、晶へ手を差し出しながらそう言う。
その突然告げられたその言葉に、晶は咄嗟にメダイを抱え込むようにして隠してしまう。
「別に壊したりなんかしませんよ。十字でも切って悪いようにはしない、って誓えば信じてくれますか?」
傍から見れば過剰とも見える晶の様子に、此花は苦笑を浮かべながらどこからか黒い紐を取り出した。
意図の分からない此花の言葉に疑いを持ちつつも、それがメダイを壊すような物ではないと理解した晶は恐る恐るメダイを差し出した。
此花は受け取ったメダイを黒い紐に通し、メダイと同じくくすんだ銀のビーズでメダイが動かないように固定し、最後に長さの調整が出来るように紐度同士を結びつけた。
「とりあえず代用品を手に入れるまではこれで我慢してください。聖三位一体の紐でしたっけ? アレじゃありませんが、神もそんな小さな事に文句をつけたりしないでしょう」
そう言って晶の手に押し付けられたメダイは黒い光沢のある革紐に通され、いささか無骨な見た目になってしまったもののネックレスとしての姿を取り戻していた。
「こ、此花君!」
「何ですか?」
晶はコートを羽織り帰り、支度を始めている此花を呼び止める。
突然起きたいくつかの出来事、言わなければならない事。
脳裏で荒れ狂うそれらに抗いながら、晶は言葉を紡いだ。
「……装飾品は原則禁止よ」
――そうじゃないでしょ
自身が吐き出した言葉に晶は即座に胸中で毒づき、花里は呆気に取られたようにポカンと口を開け、此花は笑いを噛み殺していた。
「以降、気をつけます。お疲れ様でした」
第1総務部室を白けた空気に包ませた自身の発言に顔を引きつらせる晶に、此花はそう言って第1総務部室を後にした。
「……ちゃんとお礼言わなきゃダメですよ?」
「……そうね」
閉ざされた扉を眺めながら、晶は花里のもっともな言葉に頷かざるを得なかった。