[Revolutionary] Witch Hunt 19
エリザベータはおぼつかない運転で、車をモスクワの市街地で走らせていた。
幸運にも車両は通りを走る車は少なく、目的地まであと少しとなっていた。
しかしエリザベータは数日振りに感じる守られていない事の恐怖から、焼け付くような喉の渇きを感じ、体は本人の意思を無視するように震えていた。
それでも恐怖と焦燥するエリザベータの脳裏には、最後に告げられたレイの言葉がリフレインしていた。
――悪いな、"リザ"。俺は親父みたいに上手くやれねえんだ
男というにはまだ幼く、少年と言うには擦り切れ過ぎてしまったレイの、何もかもに見切りをつけて諦観しきってしまったような笑顔。それと共に告げられてしまった言葉が、エリザベータをただ縛り付けていた。
そんな顔をさせたい訳ではなかった。
そうやっていくら後悔しようとも、エリザベータはこの結末を避ける事は出来なかっただろう。
エリザベータというD.R.E.S.S.の規制に乗り出した人間が、かつてアメリカのプロパガンダに使われたD.R.E.S.S.部隊の兵を知らないわけがなく、それを理解した上で共通のブルームスというファミリーネームを名乗ったレイに問い掛けていたのだから。
――これが運命、というのでしょうか
求めるには遠ざけられ、諦めるには近付き過ぎてしまった"恋人"のように、エリザベータは胸中で皮肉る。
――”恋人"はもう、わたくしを許しはしませんわね
そう思ってしまったエリザベータの胸中で、あらゆる感情が混じった不快感が暴れだす。
他人の痛みや苦しみを理解する事は出来ない。
それでもこんな苦しみをレイに味合わせてしまっていたのではないか、エリザベータは良くないと思いながらも無駄な思考を続けてしまう。
しかしその思考を遮るようにエリザベータの視界に現れたのは、赤と白で作られたバリケード。
国防軍の人間は近くに見えないが、それでも強行突破してしまえば騒ぎは避けられないだろう。
エリザベータは生まれて初めて舌打ちをし、近くの路地へと車を滑り込ませて停車させる。
車で自宅まで帰ることが出来ないのであれば、あとは走って逃げるしかない。
――それが、わたくしが最後に出来る事ですわ
そう胸中で覚悟を決めるように呟いたエリザベータは、後部座席に置いていた荷物を持って行こうと手を伸ばすが思いついたようにその手を止める。
もしあの黒髪碧眼の傭兵がこの場に居たら、そんな事は絶対に許さないだろうと理解出来たからだ。
身1つで冷え切ったモスクワの路地にエリザベータは降り立ち、深く深呼吸をする。
そして吐き出した白い吐息が消えたその瞬間、アレクサンドロフ邸があるノーヴィ・アルバート通りの裏手へ向かって走り出した。
買う際に「踵が低い奴にしろ。いざという時に走れないとか、マジでシャレにならねえから」と、レイに注文をつけられたブーツがアスファルトを叩き、それと同調するように鼓動が激しさを増していく。
誰も守ってくれない状況で命を狙われ、自身の足を動かしてその恐怖から逃げ続ける。
皮肉にもこの瞬間だけは、エリザベータとエリザベータが救おうとしている者達とイーヴンとなっていた。
やがて景色を置いていくように全力で走っていたエリザベータの視界に、先ほどとの通りとは違い人があふれるノーヴィ・アルバート通りが入る。
エリザベータはサングラスのフレームをブリッジを指先で押しながら、その勢いを殺さぬまま人ごみの中へと飛び込む。
厳戒態勢といつ自身達が標的になるか分からないテロ、その2つから生まれたストレスを発散するように人々は商品を物色しエリザベータに気付きもしない。
そんな人々を置き去りにして、エリザベータはノーヴィ・アルバート通りの裏手へ続く薄暗い路地へと滑り込んだ。
――あと少しですわ
そう自身を奮い立たせるエリザベータの視界に、薄暗い路地に似つかわしくない白い結晶が飛び込んでくる。
例年よりも遥かに遅い、白い息に溶けてしまいそうなささやかな初雪。
――積もる前にモスクワに帰って来れた事だけは幸運でしたわ
ヴォロネジでレイが入手したレンタカーのタイヤはスタッドレスの物になっていたが、ロシアの雪相手にはあまりにも心許ない。
そしてどういう形であっても、自身が無事に家族に保護されたという情報がレイに届けば、レイは戦闘を放り出して逃げる事が出来るだろう。
そう考えているエリザベータは狭く薄暗い一直線の路地に敷き詰められた石畳を、ブーツと同色の黒いソールで音を鳴らしながら走り続ける。
年下の少年が自身の為に血を流しているなど、冗談にもならないのだから。
そしてエリザベータがT字の角を右に曲がればアレクサンドロフ邸のすぐそばに辿り着くという所まで来たその時、黒いトレンチコートを羽織った男がその暗がりから現れる。
敵対者か分からないその男を警戒し、来た道を戻ってでも迂回しようと咄嗟に振り返るエリザベータ目は80mほど向こうから駆け寄ってくる黒いフードを顔を隠すように被った男を捉える。
「ブルズアイからの連絡はなし、って事は誘拐作戦は失敗。作戦目標が対象の誘拐から、対象の殺害に変更、か。議員サンとその手駒が悪いんだぜ? 民間軍事企業は面子を潰した奴を許したりなんかしねえんだ」
――最後の最後に最悪ですわ
軽薄な笑みを浮かべながら自身を殺すと告げた男を、エリザベータは息を整えながらサングラス越しに睨みつける。
最初のモスクワでの襲撃とサラトフ天然資源採掘施設占拠を実行した大隊、男の言っているブルズアイと思われる、検問通過後に現れた部隊だとしてその部隊。
D.R.E.S.S.を所有していたその2つが壊滅させられたのであれば、策を弄した歩兵がここで待ち構えていたとしてもおかしな事ではない。
そう気付かされると同時にエリザベータは、あの時1人で小隊に立ち向かっていったレイはその戦闘に勝利したのだと理解する。
レイが生きていたという喜び、自身がもう助かる事はないという恐怖。
その2つが混ざり合った感情を抱えるエリザベータの足が、疲労とは違う物で本人の意思を無視するように震えだす。
「まったく、こんな別嬪さんを殺さなきゃならないなんて因果な商売だ。拉致ならイロイロ楽しめたのにな」
そう言いながらトレンチコートの男が向けてきた、自身の体を舐め回すような視線から逃避するようにエリザベータは胸元の金の十字架を握る。
しかしトレンチコートの男はそんなエリザベータの様子を意にも留めずに、懐から拳銃を取り出した。
自身が立ち向かっていたD.R.E.S.S.の持つ銃器とは比べ物にならないほど小さなそれに、生殺与奪を握られてしまった情けなさからエリザベータは唇を噛み締める。
少年と世界を変えると言いながらも少年に守られ、そして最後には無様に死ぬ。
かつて感じた事のない屈辱と無力感に苛まれるエリザベータ。
しかし銃口は無遠慮に、そして決定的な死を提示するようにエリザベータへ向けられた。
「きっと天国は平和だ。ウチの奴にもよろしく頼むよ」
知覚する間も無く自身を殺すだろう質量を持った殺意から逃れるように、エリザベータは目を閉じる。
金属同士がぶつかり合う金属音。暗闇の世界の中で確かに聞いたその音を聞いた瞬間、諦めと違和感を感じるエリザベータの体は強い力に無理矢理引かれる。
「運が良かったな、俺の手が鋏じゃなくてよ」
秒速約380m射出される弾丸の銃声ではない、聞き覚えのある声と同時に現れたそれは、分厚い"何か"越しに強い衝撃をエリザベータに伝えながら、エリザベータを質量を持った殺意から遠ざけるように引き寄せ、守るように抱き寄せる。
そして間近で放たれた数発の銃声、軽いとは言えない質量の肉体が地面に叩きつけられる音、そして自身を包み込み安堵を与えてくれるその熱。
それらを確かに感じていたエリザベータは、乱暴に抱き寄せられた際にサングラスを吹き飛ばされた目を恐る恐る開けると、そこに居たのは黒髪と暗い碧眼を持った傭兵だった。