Dearest [Death] Dealer 9
――しかし、随分と懐かれてたもんだ
日が暮れてすっかり暗くなった窓の外を眺めながら、レイは胸中でしみじみと呟く。
つい数時間前まで泣いていたフィオナは泣き疲れたのか、すっかり眠ってしまいレイは静かな時間を過ごせていた。
フィオナの事情は知っている。
フィオナの感情は知らない。
フィオナが感じていた自身を通して、他人を見られるという苦痛は知っている。
フィオナがそれをいかにして耐え忍んできたかは知らない。
フィオナの命が狙われ、それがどんなに恐ろしい事なのか知っている。
フィオナがいかにレイに懐き、泣き喚くほどに心を開いていたのかは知らない。
結局のところレイにとって、フィオナはそれだけの存在でしかなかったのだ。
もし仕事と関係なくアテネの街を歩き、フィオナが誘拐されそうになっているところを見てもレイは何もしなかっただろう。
仕事ではないから。どうしようもなくシンプルな理由で、レイはフィオナを切り捨てる事が出来た。
しかしフィオナの涙を見た瞬間、レイの心に奇妙な不快感が生まれていた。
誰かを鬱陶しいと思った時のものとは違う。
誰かを殺してやりたいと思った時のものとは違う。
誰にも認められない事を理解した時のような、とても冷たい不快感。
――知ったこっちゃねえよ
不毛な思考を紛らわすようにレイは嘆息し、携帯電話のディスプレイを覗き込む。
時刻は既に20時を過ぎており、レイにはローネインらの集中力が懸念となっていた。
レイがこの部屋に訪れてから既に5時間は経っており、いくら2人が優秀とはいえ5時間張り詰めた緊張は過度の疲労を生んでいるだろう。
何も起こらずに全てが終わるのに越した事はないが、事が起こってしまうのであれば早い方がいい。
そんな矛盾だらけの馬鹿げた考えにレイが苦笑したその時、フィオナが寝ていたベッドが動きを見せた。
フィオナが起き上がった事により、フィオナを隠していたシーツは落ちる。
そして露わとなったフィオナの目は充血から、その目の周りは涙を拭うために擦った事から赤くなっていた。
レイの暗い青の瞳はそんなフィオナの様子を一瞥するも、すぐに興味をなくしたように窓の外へと視線を移す。
「……や」
耳を打つか細い声にもレイは一切の反応を見せず、ただつまらなそうに、そしてそれが何かから目を逸らすように窓の外を眺めている。
フィオナはそんなレイの様子を視界に入れる事もなく、俯いた拍子に自分の首に掛けられた十字架のネックレスを見つめる。
あの時はレイとお揃いのモチーフだと嬉しく感じていたそれすらも、今のフィオナには自分を追い詰める枷にしか見えない。
「……いや」
今度は言葉を吐き出せたか細い声に、レイの胸中にまた冷たい不快感が生まれる。
その冷たい不快感はレイの胸中にただ静かに広がり、あらゆる感情を飲み込んでいく。
「……もう嫌! お父さんも、商会も、レイ兄さんも、D.R.E.S.S.もみんな大嫌い!」
突然のフィオナの大声に、レイは思わず顔を顰める。
――嫌なのは俺も同じだ、クソが
フィオナが泣けば泣くほどに冷たい不快感はレイの胸中を支配していき、レイは何かを堪えるように右手で顔を覆う。
銃器を扱い続けた腕のバングルの冷たさが、実態のないその不快感の存在をレイに確かに理解させる。
「騙して、馬鹿にして、面白かったでしょ!? どうせ友達の1人も出来ない、お父さんの娘だって事にしか価値がないって気付けない、バカな子供だって思ってたんでしょ!?」
言葉と共に投げつけられた枕を左手で受け止めて、レイはフィオナに当たらないように優しく枕をベッドへと投げ返す。
再び溢れ出した涙はフィオナの顔を伝って、ベッドへと雫を落としていく。
「お父さんも、商会も、レイ兄さんも、みんな居なければあたしだって普通で居られたのに! どうしてあたしの邪魔ばっかりするのよ!」
嗚咽を混じらせながらもフィオナは確かに言葉を紡ぎ、やり場のない苛立ちをベッドにぶつけるようにシーツを滅茶苦茶にする。
レイが護衛である事を隠されていたから、フィオナはこんなにも悲しんでいる。
しかし最初から知っていれば、フィオナはその他の護衛と同じようにレイを遠ざけただろう。
その結末の全てが最後にはレイをフィオナから遠ざけ、どの道自分が望む答えに辿り着く事が出来はしないのだと、フィオナは理解させられてしまった。
――なんであたしばっかり
何も言わずただ受け入れてくれた事が、何よりも幸せだった。
車に押し込まれそうになったあの時、手を握ってもらえた事がすごく嬉しかった。
しかしフィオナを受け入れてくれた人は、仕事でフィオナの傍に居ただけだった。
「みんな……みんな居なくなっちゃえばいい――」
「いい加減にしておけよ、クソガキ」
聞いた事のないレイの乱暴な言葉にフィオナは聞き違いかと思うも、一瞬にして換わった部屋の空気感でそれが今確かに起きている事実だと理解する。
取り繕った笑みでも、困ったような苦笑でもない、心底呆れたような表情を浮かべたレイの暗い青の瞳は、フィオナの緑色の瞳を射抜くような視線を突きつける。
「皆居なくなればいい? アンタが言う大嫌いなもの全てがアンタの命を守ってたってのに、随分なことほざくじゃねえか――同情して欲しけりゃしてやるよ、確かにアンタの生まれや肩書きは人を遠ざけるだろうさ。でもこれまでの人生全てが不幸だったのか? あれだけ大事に思われて、あれだけ膨大な金を使われて」
「お金じゃ孤独は埋まらないわ!」
「その金が人を駆り立てて、その金がお前を守った。それくらいアンタのクソみてえにハッピーな頭でも分かるだろ?」
レイがここに、自分の隣に居る理由がそれである事をフィオナは理解している。
それがフィオナを孤独にした理由そのものであるとも理解しているフィオナは、ただレイを睨みつけてそれを肯定することを拒否する。
「アンタの望みを叶える為に、ダミアンは少なくはない金を使った。護衛部隊はアンタの望みを叶え、アンタの命を守る為に為に昼夜問わず身を隠してアンタについていた。それだけの人間がアンタの為に命を張って、アンタの為に金を掛けてるんだよ。贅沢な不満だよな、本当に」
レイを信用する為に存在しない情報を集める為に使われた資金、心身をすり減らしながら未だ警護を続けるローネイン達。
それほどに愛されながらまだ違う何かに焦がれるフィオナが、何度も協同相手に裏切られてきたレイには理解出来なかった。
傭兵からすれば、金だけが唯一自分達を繋ぎとめるものなのだから。
「うるさい! お父さんに言いつけてやる!」
「勝手にすればいい。でも残念ながら俺は商会の人間じゃねえし、ついでに言えばダミアンに雇われてる訳でもねえ。まあこれが終わればお互いに2度と会う事はねえんだ、気楽にいこうぜ」
――クソガキは俺じゃねえか
錯乱から整合性がなくなり始めたフィオナの発言に言葉を返しながら、レイは胸中で自嘲するように呟く。
結局のところ、敵は増えても信用出来る人間など出来はしないレイは、生きているだけで愛されているフィオナに嫉妬しているだけなのだ。
成果を上げなければ生きている価値すらない、成果さえ出せば生きていなくても価値は認められる。
そんな世界を知らないフィオナは愛されている事を理解しないまま自分の望みだけを求め、そんな世界で生きてきたレイはそんなフィオナの沈痛な思いを理解しようとしないままフィオナを突き放した。
決してお互い様とは言えない幼稚な意思の対立、それを終わらせたのは意外にもフィオナだった。
「……あたしは、あなたを一生許しません」
フィオナは弱々しい雰囲気の中に、刃物のように鋭い敵対の意思を含ませた言葉を告げる。
兄と慕っていた男に、別れを告げるように。
「だから、勝手にしてくれれば――」
しかし返された言葉は轟音に半ばで遮られ、窓の外に眩いほどの光が生まれる。
そしてその光を割いて現れた合金製の敵意、飛び出すように窓とベッドの間へと身を滑り込ませ、バングルの表面を強く殴るレイの様子にフィオナは戸惑いを隠せない。
それでもレイを目で追っていたフィオナの緑色の瞳は、気付いてしまった。
カーキ色の無骨な装甲、その装甲が存在しない間接部から覗く黒いフレーム、そして煌々と黄色い光を灯す単眼のマシンアイを持つD.R.E.S.S.――ルードがブースターを吹かせて2階にあるフィオナの部屋の窓の外に滞空していた。
そしてスローになるフィオナの視界が捉えたのは、最新にして最強の兵器D.R.E.S.S.と、その圧倒的な戦力に生身でフィオナを庇うように飛び出したレイの背中。
――逃げて
そう叫ぼうとするも眼前に現れた質量を持った敵意に、フィオナは何もする事が出来ない。
話には聞いていた、知識として理解はしていた。
しかしそれがもたらす圧倒的な暴力の事など、フィオナは考えた事もなかった。
そうしている間に襲撃者は自身とフィオナの間を阻むレイへと、大口径のライフルの銃口を突きつける。
――みんな居なくなっちゃえばいいんだ
レイに最後まで言わせてもらえなかった言葉がフィオナの脳裏にリフレインされ、フィオナの体がフィオナの意思を無視して震えだす。
――全部、嘘だ
父が自分を愛してくれているのを知っている。警備の都合上なかなか会えなくなってしまった母との食事の時間は幸せな時間だ。
レイが自分を受け入れてくれていたあの日々は掛け替えのない宝物だ。
自らを庇うようにD.R.E.S.S.と相対するレイの背中へと、フィオナは縋るように震える手を伸ばす。
恨みもした、怒りもした。
それでもフィオナは、部屋に1人で押し込められそうになったあの時、孤独ではなくレイが傍らに居なくなる事を拒否したのだ。
「やめ――」
しかし襲撃者の引き金はフィオナの制止の声を掻き消し、フィオナは眩い光と恐怖から目を閉じた。
目を閉じた音だけの世界でフィオナは、部屋自体が揺らされてしまう程の銃声と防弾ガラスと装甲車と同じ素材で作られた窓枠が吹き飛ばされるのを、暴力的なまでの爆音で理解する。
吹き飛ばされたガラスから身を守ろうとフィオナは、伸ばしていた手で反射的に頭を抱えるもフィオナの髪をなびかせたのはアテネの冷たい外気だった。
閉じた目ですら眩しさを感じてしまうほどに強い、シアングリーンの眩光。
一転して訪れた静寂と、消えてしまったそのシアングリーンの光に事態が進展してしまったことを理解したフィオナは恐る恐る目を開く。
フィオナが視界に捉えたのは、破壊された窓と、コンクリートの中に装甲を仕込んでいた屋敷の外壁の残骸、そして首に合金の刃を突き刺されていたカーキ色の襲撃者と、その敵対者と良く似た無骨なフォルムの灰色の装甲とシアングリーンのマシンアイを持つレイ・ブルームスのD.R.E.S.S.――ネイムレスだった。




