第23話 記録にないもの
鳴るはずのない鐘が、ひとつ鳴った。
古鐘門は今も結界の基点として残されている。
けれど、門の上の鐘はとうに役目を終えたものとされていた。
その鐘が、鳴った。
朝の空気に音が広がった瞬間、ロランが動いた。
「シャルロッテ様、お下がりください」
ロランはシャルロッテの前へ半歩出る。片手は剣の柄に触れていた。
「下がりません」
シャルロッテは古鐘門を見上げたまま、静かに答えた。
「これは異変です。ですが、少なくとも今すぐ害をなすものではありません」
「ですが、聖女様」
「ロラン。私も見ています」
その言葉に、ロランはそれ以上は言わなかった。
ただ、シャルロッテの半歩前に立ったまま、鐘と門を見据えている。
クラウディアは記録板を開き、古鐘門の項目へ指を滑らせた。
「結界反応は安定。聖句の損傷も確認されていません。祝福も正常に重なっています。ですが……」
そこで、クラウディアの指が止まる。
「鐘としての機能は、すでに失われていると記録されています。今の鳴動は、記録上あり得ない反応です」
門の上で白く光っていた鐘は、まだ淡く輝いていた。
一行は緊張を保ったまま、しばらく状況を見守る。
やがて鐘の音は朝の空気へ溶けるように遠ざかり、白い光も少しずつ薄れていった。
古鐘門は、何事もなかったかのように沈黙する。
「ユナ」
シャルロッテがこちらを見た。
「何か見えましたか」
「……見えたわけではありません」
ユナは門を見上げた。
波紋は見えない。
水面のような揺らぎもない。
聖名水庭で見た、欠けた聖句のようなものもない。
頭の奥へ落ちてくる言葉もなかった。
それなのに、鐘の音だけが胸の奥に残っている。
鐘が鳴った瞬間、自分の中にある何かまで、一緒にかすかに震えた。
名を呼ばれたのとは違う。
声が届いたのとも違う。
誰かがユナを呼んだわけではない。
ただ、古鐘門が境界の揺らぎに反応したその一瞬、ユナの奥にある何かまで、その響きに触れられたような気がした。
「……呼ばれたように、感じました」
言ってから、ユナはすぐに首を振った。
「でも、誰かに呼ばれたのとは違います。名前を呼ばれたのでもありません。鐘が鳴った時、私の中の何かまで、同じように震えたような気がして……」
「呼ばれたように、ですか」
シャルロッテは責めるでもなく、急かすでもなく、その言葉を受け止めた。
「はい。うまく言えません」
「構いません。今は、そのままで」
マティアスとクラウディアは、古鐘門の周囲を確認した。
門柱の聖句。石に刻まれた古い線。結界の反応。鐘の下に残る魔力の揺れ。
しばらくして、マティアスが戻ってきた。
「結界としての機能は維持されています。現時点で、周辺への危険な反応もありません」
「こちらも同じです」
クラウディアが記録板を確認しながら言う。
「ただし、鐘の発光と鳴動については、現存する記録と一致しません」
シャルロッテは古鐘門へ近づき、見上げた。
「この鐘の機能は、すでに失われていると記載されているのですね」
「はい。少なくとも、聖名庁に残る記録では」
クラウディアの声は慎重だった。
シャルロッテはすぐには答えなかった。
その横顔は、初めて何かを知った人のものではなかった。
むしろ、胸の奥に置いていた疑いが、目の前の出来事によって輪郭を持ち始めたように見えた。
「記録にない役目が、この門には残っているのかもしれません」
シャルロッテは静かに言った。
「あるいは、記録から外された役目が」
その言葉に、クラウディアの羽ペンが一瞬止まった。
「……シャルロッテ様」
「断定はしません」
シャルロッテは古鐘門を見上げたまま続ける。
「ですが、今起きたことを、既存の記録に無理に合わせるべきではありません。記録にないからといって、なかったことにはできません」
マティアスはしばらく考えたあと、周囲を見渡した。
「現場で確認できることは、ここまでです。第七結界そのものは安定していますが、鐘の反応は管理官による継続調査が必要でしょう」
ロランはまだ剣から手を離していない。
「このまま巡祈を続けますか」
「一度、聖名庁へ戻りましょう」
マティアスが言った。
「結界管理棟へ報告し、記録と照合します。そのうえで、第八結界以降を続けるか判断します」
シャルロッテは頷いた。
「分かりました。第七結界は管理官へ引き継ぎます」
ユナはもう一度だけ古鐘門を見上げた。
鐘はもう光っていない。
鳴ってもいない。
けれど、胸の奥には、まだ細い震えだけが残っていた。
◇
一行は聖名庁へ戻った。
マティアスとクラウディアは、管理官たちへ報告するため結界管理棟へ向かった。
その間、シャルロッテとロラン、そしてユナは、聖女執務区画にある食堂で待つことになった。
聖女執務区画の食堂は、修道院宿舎の食堂とは違って静かだった。
温かい食事が並んでいるのに、ユナにはまだ古鐘門の鐘の音が耳の奥に残っているように感じられた。
「先ほどの“呼ばれたように感じた”ということについて、もう少し聞いてもいいですか」
シャルロッテが静かに尋ねた。
ユナは膝の上で指を重ねた。
「……うまく言えるか分かりません」
「分からないままで構いません。ただ、あなたが感じたことを、そのまま聞かせてください」
ユナは少しだけ息を吐いた。
「声がしたわけではありません。名前を呼ばれたのでもありません。ただ……鐘の音が、私の中の何かに触れた気がしました」
「中の何か、ですか」
「はい。でも、それが何なのかは分かりません。私自身のことなのか、それとも……もっと別のものなのか」
シャルロッテは急かさなかった。
「分からないものを、無理に知っている言葉へ押し込めてしまえば、本当に起きたことから離れてしまいます」
その言葉に、ユナは顔を上げた。
「記録にないものを、なかったことにはしません」
その一言が、ユナの胸の奥に残った。
ロランが口を開いた。
「確認しておきたい」
その声に、ユナは少し緊張する。
けれどロランの声は、責めるものではなかった。
「あの時、君自身に引き寄せられる感覚はあったか」
「引き寄せられる……というより、見つけられたような気がしました」
「見つけられた」
「はい。でも、誰かに見つけられたという感じではありません。鐘が境界の揺らぎに反応した時、私の中にあるものまで一緒に反応してしまったような……」
そこで、ユナは言葉を止めた。
「すみません。やっぱり、うまく言えません」
「いや。十分だ」
ロランは短く言った。
「次に同じことが起きた時は、すぐに言ってほしい。聖女様を守るためにも、君自身を守るためにも」
ユナは少し驚いて、ロランを見た。
「……私も、ですか」
「当然だ。君が何に触れられたのか分からない以上、君自身も危険の内側にいる」
その言い方は少し硬かった。
けれど、そこに拒絶はなかった。
「ありがとうございます」
ユナが小さく答えると、ロランは軽く頷いただけだった。
そのころ、食堂の入口に人影が見えた。
マティアスとクラウディアだった。
「お待たせしました」
クラウディアは記録板を抱えたまま、席の近くまで来る。
「第七結界については、結界管理官が継続して確認を行います。現時点で、結界機能に異常はありません」
「鐘の反応については?」
シャルロッテが尋ねる。
「管理棟側でも、現存する記録との照合を進めます。ただ、すぐに結論は出ないでしょう」
マティアスが続ける。
「第八、第九結界については、予定通り本日中に確認します。第七結界は管理官に監視を引き継ぎ、巡祈隊は昼から移動を再開します」
「分かりました」
シャルロッテは頷いた。
ユナは手元の食器へ視線を落とした。
鐘はもう鳴っていない。
古鐘門の白い光も消えている。
けれど、胸の奥に残った震えだけは、まだ消えていなかった。
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