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あなたと私の30年戦争

作者: イチジク

定年退職の朝、夫が出勤用のシャツを自分で畳んでいた。

三十年間、私がアイロンをかけて畳んで、クローゼットに並べてきたシャツ。それを夫が、ぎこちない手つきで畳んでいる。

「...何してるの」

声をかけると、夫は少し驚いたような顔をした。

「もう着ないから。整理しようと思って」

その背中を見ながら、私の胸に何かが込み上げてきた。

三十年。長かった。そして、まだ続く。


────


始まりは些細なことだった。

結婚三年目、長女が生まれて間もない頃。夜中に何度も起きてミルクをあげ、オムツを替え、朝には睡眠不足で頭が痛かった。

「ちょっと手伝ってくれない?」

「明日、大事な会議があるんだ」

夫はそう言って寝返りを打った。

「私だって大変なのに」

その言葉は、喉まで出かかって消えた。

夫は仕事で頑張っている。私が弱音を吐いてはいけない——そう思い込んでいた。

翌朝、夫は何も言わずに出勤していった。

「昨夜はごめん」も「お疲れ様」もなく。

それが、私たちの「言わない」の始まりだった。

夫の脱ぎっぱなしの靴下。洗濯物の山。ゴミ出しを忘れる朝。

小さな不満は、少しずつ積もっていった。

でも私は言わなかった。「ありがとう」が欲しいとも、「助けて」とも。

夫も言わなかった。「いつも感謝してる」とも、「疲れてるんだ」とも。


────


娘が小学生になる頃、私は腰を痛めて動けなくなった。

「悪いけど、今日の夕飯作れない」

昼間、病院から夫の会社に電話をかけた。ポケベルを鳴らして、折り返しの電話を待つ。

「わかった。何か買って帰る」

夫の声は少し疲れているようだった。

夜、夫が持ち帰ったのはコンビニ弁当だった。

「ごめんね」

私が謝ると、夫は首を横に振った。

「大丈夫。ゆっくり休んで」

その夜、夫は娘の宿題を見て、洗い物もしてくれた。

もしかしたら、あの時が変わるチャンスだったのかもしれない。

でも私は「いつもこうしてくれたらいいのに」と思ってしまった。

夫は「たまにはいいだろう」と思っていたのだろう。

どちらも、それを口にすることはなかった。

携帯電話が普及し、メールができるようになった。でも私たちのメールは業務連絡だけ。

「今日遅くなる」

「わかった」

スマホが当たり前になり、LINE でやり取りするようになった。でも内容は変わらない。

「晩ごはんいる?」

「いらない」

「既読」

既読スルー。それが私たちの日常になった。


───


きっかけは本当に些細なことだった。

娘の中学受験で意見が対立した。夫は「受験させるべき」、私は「本人の意志を尊重したい」。

「お前は甘い」

「あなたは娘の気持ちをわかってない」

言い合いになった。そして、夫は黙り込んだ。

私も口をきくのをやめた。

最初は数日のつもりだった。でも一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、気づけば半年が経っていた。

必要な連絡は LINE のみ。顔を合わせても無言。

娘たちは気づいていた。

「お母さん、お父さんと喧嘩してるの?」

「してないわよ」

嘘だった。喧嘩以上に悪いことをしていた。相手の存在を無視していた。

でも謝れなかった。どう謝ればいいのかも、わからなくなっていた。

冷戦は四年続いた。


───


長女が高校生になったある日、リビングのテーブルに小さなメモがあった。

娘の字で、こう書かれていた。

「お父さん、お母さんへ

ずっと我慢してたけど書きます。

二人が全然話してないの、すごく辛い。

私たちのせい?

家にいるのが怖い。

仲良くしてとは言わない。

でも、せめて普通に話してほしい。

美咲」

そのメモを読んだ時、涙が止まらなくなった。

夜、夫が帰ってきた。私はメモを夫に見せた。

夫は何も言わず、メモを握りしめた。その手が震えていた。

「...ごめん」

夫が先に謝った。

「私も、ごめんなさい」

四年ぶりの会話だった。


───


娘のメモをきっかけに、私たちは話し合いを試みた。

でも、うまくいかなかった。

「だってあの時、あなたが」

「そっちだって」

すぐに言い合いになり、また沈黙が訪れる。

長女が提案してくれた。

「夫婦カウンセリング、行ってみたら?」

最初は抵抗があった。他人に自分たちの問題を話すなんて。

でも、藁にもすがる思いで予約を取った。

カウンセラーは穏やかな女性だった。

「まず、お二人の今の気持ちを聞かせてください」

私は話し始めた。三十年間の不満を。夫は黙って聞いていた。

次に夫が話した。

「俺も、ずっと辛かった」

初めて聞く言葉だった。

「仕事で疲れて帰っても、家には安らぎがなかった。でも、それを言ったら妻を責めることになると思って、黙ってた」

カウンセラーが言った。

「お二人とも、相手を思って黙っていたんですね。でも結果的に、それが相手を傷つけていた」

図星だった。

カウンセリングは半年続いた。

そこで学んだのは「具体的な行動」だった。

家事分担表を作った。最初は恥ずかしかったけれど、「見える化」することで、お互いの負担が明確になった。

「これ、俺がやる」

夫がゴミ出しと洗濯物を担当してくれることになった。

「感謝を言葉にする」練習もした。

「今日の味噌汁、美味しかった」

「洗濯物、ありがとう」

ぎこちなくても、言葉にすることで何かが変わり始めた。


──


娘たちが独立し、夫が定年を迎えた。

突然、一日中二人きりの生活が始まった。

最初は戸惑った。

「今日の昼、何食べる?」

「そばでいい」

「また蕎麦?昨日も食べたじゃない」

「じゃあ、なんでもいい」

「なんでもいいが一番困るのよ」

小さな衝突は相変わらずあった。でも、以前とは違った。

「ごめん。じゃあ、一緒にスーパー行って決めよう」

夫が提案してくれた。

スーパーで並んで買い物をする。こんなこと、何年ぶりだろう。

「これ、好きだったよね」

夫が私の好きな菓子パンを籠に入れた。

「覚えてたの?」

「当たり前だろ」

夫が少し照れくさそうに笑った。


───


ある朝、起きると台所からいい匂いがした。

慌てて降りると、夫がフライパンを持っていた。

「何してるの?」

「卵焼き。お前、昨日疲れてたから」

不器用な形の卵焼きが、皿に乗っていた。

「...ありがとう」

涙が出そうになった。

夫は照れくさそうに頭をかいた。

「YouTube で見たんだ。簡単そうだったから」

味見をすると、少し焦げていたけれど温かかった。

「美味しい」

本当だった。

「役割交代もいいな」とカウンセラーが言っていた言葉を思い出した。

それから夫は時々、朝食を作ってくれるようになった。

私は、夫が長年独占していた書斎の整理を手伝った。

「これ、捨てていい?」

「それは取っといて」

会話が増えた。笑うことも増えた。


───


夫が人間ドックで再検査になった。

「大したことないと思うけど」

夫はそう言ったけれど、顔は青ざめていた。

「一緒に行く」

私はそう言った。

病院の待合室で、二人並んで座った。

「怖い?」

私が聞くと、夫は小さく頷いた。

「少し」

初めて聞く、夫の弱音だった。

「大丈夫。私がいるから」

手を握った。夫の手は冷たくて、震えていた。

「ありがとう」

夫がそう言った。

検査結果は問題なかった。帰り道、夫がぽつりと言った。

「俺、もっと早く弱音を吐けばよかった」

「私も。もっと早く頼ればよかった」

二人で笑った。

エピローグ 三十年戦争の終わり、そして

結婚三十五周年の朝。

夫が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私は窓の外を見ていた。

「今日、どこか行く?」

夫が聞いた。

「うん。写真撮りに行こうか」

夫の趣味の写真に、最近は私も付き合っている。

カメラを通して見る世界は、不思議と新鮮だ。

「あの花、綺麗だね」

「そうだな。撮ろうか」

二人で並んで、同じものを見る。

完璧な夫婦にはなれなかった。今でも些細なことで言い合いになる。

でも、違うのは「ごめん」と「ありがとう」を言えるようになったこと。

相手の弱さを認められるようになったこと。

そして、完璧じゃなくていいと思えるようになったこと。

娘の美咲が孫を連れて遊びに来た。

「おじいちゃん、おばあちゃん、仲良しだね」

孫がそう言った。

夫と顔を見合わせて、笑った。

「そうかな」

「今はね。昔は大変だったのよ」

「でも、諦めなかったんだね」

娘がそう言った。

諦めなかった——そうかもしれない。

いや、諦められなかった、が正しいのかもしれない。

この人との日々を。この人と築いてきた時間を。

夜、夫と二人でリビングに座っている。

テレビを見ているわけでもなく、ただ並んで座っている。

「三十五年、長かったな」

夫が言った。

「本当にね」

「これからも、よろしく」

夫が照れくさそうに言った。

「こちらこそ」

私は夫の手を握った。

温かかった。

三十年の戦争は終わった。

でも、二人の物語はまだ続く。

今度は、手を取り合って。

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