6. 橙色のリボンと遠い記憶
「お母様ったら驚きましたよ。シーナが急に倒れたというから……」
「ごめんなさいね。少し眩暈がしただけなのよ」
マリアの横になるベッドのそばで彼女の手を握りながら、アイリスは深く息を吐いた。
庭を散歩していたマリアが急に倒れてしまったのだ。
すぐに医者を呼んで診察を受け、今はベッドで安静にしている。
両手で握ったマリアの白い手は、ほっそりとして冷たかった。
「殿下も来ていたのでしょう?」
「今日はもう帰られましたよ。お母様のことを心配していました」
「そう……。申し訳ないわね。ごめんねアイリスちゃん」
「いいんですよ。お母様が一番大切ですから」
マリアの手が、アイリスの手をきゅっと掴む。
どうしたのだろう、と見つめ返すと、悲しそうに微笑まれた。
「お母様……?」
「アイリスちゃんは……昔、お城の茶会にお呼ばれしたこと覚えてない?」
「……確か、お母様がうちに来て一年くらいの時でしたっけ。子供の頃のことだからうろ覚えですけれど、お城がとても豪華だったのは覚えています」
突然どうしたのだろう、と思いながらアイリスは記憶を遡るように目を閉じる。
それは王妃主催の王城でのガーデンパーティーだった。
今考えると、マリアがクライヴの元世話係だった関係で呼ばれたのだろう。見たこともない豪華な庭園に豪華な食事。そして着飾った人々が大勢いた気がする。
とはいえ、当時六歳だったアイリスの記憶はあいまいなのだけれど。
アイリスは大人達の会話に付き合うのに飽きた他の貴族の子供達と一緒に庭で遊んでいた。
はしゃいで走り回っていたアイリスは、茂みの中で木の枝に髪に結んでいたリボンがひっかかりそのまま派手に転んでしまった。せっかく父がプレゼントしてくれたリボンだったのに。リボンは裂けてほどけてしまい、髪型もボロボロで――。
(そういえば……)
そのとき一人の少年が、アイリスを助けてくれたのだ。
今にも泣きそうなアイリスを助け起こし、ドレスの土を払ってくれて、ブラウスの襟に結んでいたリボンをアイリスの髪に結んでくれた。
『おまえ、アイリスだろ?』
『は、はい』
『マリアに心配かけるなよ。おてんば』
アイリスはふと自分の髪に結んでいた淡い橙色のリボンに触れた。
懐かしい子供の頃の思い出だ。
そのリボンを今でもアイリスは大切にしていた。もしかしたらあれが初恋だったのかもしれない。
今となっては顔も姿かたちも思い出せないが……。
(……ん? あれ?)
アイリスはぱちりと目を開けた。
淡い橙色のリボン。
それを結んでくれた貴族の少年。
なぜか彼はマリアのことを知っていた。今思い出すと不思議だ。
彼はどんな姿をしていただろう? そうだ、このリボンと同じ髪色の。
「……え!?」
「ふふ、もしかして気づいたのかしら?」
「私、クライヴ殿下と会ったことが……?」
「そうよ、お膝を擦りむいたあなたを私のところまで連れて来てくれたのよ」
クスクスといたずらが成功した子供のようにマリアが笑う。
アイリスは頬が熱くなるのを感じた。
屋敷に突然やって来たあの日が初対面かと思ったら、実は子供の頃に出会っていたなんて。おそらくクライヴはそれを覚えていたのだろう。
クライヴには思いきり、初対面だと言ってしまった。大変失礼なことをしていたことに気がついて気まずくなる。
アイリスは恥ずかしくてベッドにぼふっと顔を埋めた。
「どうしよう……今更恥ずかしくて言えない……。お母様も教えてくれたよかったのに~! ひどい!」
「ごめんなさい、一生懸命なクライヴ殿下がなんだか可愛くて、いつ気がつくかしらって見守っちゃった」
一生懸命な殿下、と言われてアイリスはふと応接室での会話を思い出した。
そういえば、最初にアイリスに言った婚約申し込みの理由は嘘だったのだ。
まるで、あの言い方では本当にアイリスのことが――。
アイリスは頭の片隅によぎった思考を消そうと頭を振った。
「揶揄わないでくださいお母様。子供の頃のことです」
顔を上げると、さらりと髪と一緒に肩に落ちてきた橙色のリボンが視界に入る。それだけでアイリスはなんだか居たたまれない気持ちになった。
マリアがなんとなくクライヴとの婚約に乗り気だった理由がわかった。
「ええー、そうなの? せっかく素敵な恋物語が見れるかと思ったのに!」
「お母様~?」
「ご、ごめんなさい、怒らないでアイリスちゃん。あなたはお母様が一番ですものね」
「その通りですよ、もう!」
アイリスがジロリとベッドに突っ伏したまま下から見上げると、慌ててマリアが謝った。マリアいつまでも無邪気で可憐な少女のようなところがある。
まったくもう、とアイリスは苦笑してマリアに抱き着いた。
「……私はお母様のそばにずっといたいんです。だから結婚なんてしません」
「困ったわねえ。これじゃあお父様が頭を抱えちゃうわ」
「抱えさせとけばいいんです。一人でさっさと先に逝ってしまったのですから」
アイリスの父はおおらかでのんびりした人だった。それなのに天の国に行く時だけはあっという間だった。今頃天の国で頭を抱えているかもしれないが、存分に困ればいいとアイリスは思っている。こちらがどれだけ大変で寂しい思いを抱えているか、思い知ればいいのだ。
むくれた顔をしたアイリスに、マリアがあらあらと笑う。
優しい手つきで細い指がアイリスの髪を梳く。
「アイリスちゃん。私、本当はね」
「お母様……?」
ふと髪を梳く動きが止まった。
アイリスが見上げると、月明りに照らされたマリアは真っ白な顔で淡く微笑んでいた。
「すごく、嬉しく思ってしまったの。あなたがずーっとそばにいてくれるって聞いた時……。そんなことは駄目なのに。ちゃんとあなたにふさわしい素敵な殿方を見つけて、幸せになれるようにしてあげなければって思っていたのに。私、ダメなお母様ね」
「そんなことありません! 私にとっては最高に素敵なお母様です。そんなこと言わないでください……」
勢いよく身を起こしたアイリスはマリアの両手を握った。
まさかそんなことを思っていたなんて。いつも朗らかで優しい顔ばかりしていたから気づかなかった。
「私は今のままで十分に幸せです。だから心配なんかしないでください。自分の身体のことだけ考えてください」
「ふふ……ありがとう、アイリスちゃん。だけど、ひとつだけ約束してね」
「約束?」
アイリスが一つ瞬くと、マリアの細い指先が頬に触れた。
「素直が一番よ。自分の気持ちに嘘をつかないでね」
「自分の気持ちに……?」
「ずっとそばにいてほしいのも本当。だけどやっぱりアイリスちゃんが幸せになるのが一番私も幸せだもの。だから、私のことは気にしないで好きな人の手を取るのよ」
「……い、嫌です! 私はお母様のそばにいるんだから!」
アイリスは浮かんだ涙を誤魔化すようマリアに抱きついた。
困った子ねえ、とマリアの苦笑する声が聞こえたが、アイリスは何も言えなかった。
マリアと一緒にいられる時間は長くはない。
本当はもうずっと前からわかっていた。
だからアイリスはその時が来るまで、ずっとマリアと共にいようと誓ったのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。本日はあと二話更新して完結の予定です。




