第8話『朱音、戦鬼の舞』
準決勝直前の控え室。試合前とは思えない静けさのなかで、朱音は黙々と腕を回していた。
赤いチャイナ風の道着。黒帯には、形意拳の流派を示す金糸の刺繍。目を閉じると、その内側で拳が踊るように動いていた。滑らかで、美しく、けれど獣のような力強さを秘めている。
そこへ、きらりが通りがかる。
「……朱音さん、ですよね」
「ええ。空手の……“舞う子”ね」
その言い方に、きらりの眉がぴくりと動く。
「さっきの試合、見てくださってたんですね」
「もちろん。あなたの動き、興味深かったわ。まるで演舞ね。美しくて、整っていて――だが、薄い」
朱音は涼やかな口調で言う。
「“武”はね、芸術じゃないの。生きるか死ぬかの世界で磨かれてきた“力の証明”。技が綺麗に決まったからって、相手が倒れなきゃ意味がないわ」
「でも……私は、舞うように戦って、本当に相手を止めたつもりです」
「それは、相手が甘かっただけ。私の前では通じないわ」
朱音の瞳が鋭く光る。
「あなたは舞台に立っていた方がお似合いよ。お客さんの拍手をもらって、キラキラしたライトの下で踊るのが、きっと一番幸せ」
挑発とも言える言葉だったが、きらりは怒らなかった。ただ、深く息を吸い、小さく微笑んだ。
「でも、今はリングが、私のステージなんです」
──その言葉に、朱音の口元がわずかに釣り上がる。
「なら、証明してみせて」
場内アナウンスが、朱音の出番を告げた。
「行ってくるわ。“舞台女優”さん」
朱音が控え室を出ていく。背中に滲む気迫に、きらりは思わず息を呑んだ。
***
準決勝第1試合。
朱音の相手は、ボクシング経験者でパンチに自信を持つ選手。だが、その鋭いジャブを、朱音はまるで風を避けるように身を引いてかわす。
「なんだあの動き……!?」
「まるで生き物みたいに間合いに入る……!」
実況の声が高まる中、朱音の体が一気に沈む。
形意拳独特の“崩拳”が地を這うように放たれた。
バシュッ!
空気を裂く音と共に、拳が相手の腹に突き刺さる。
「ぐっ……!」
相手が膝から崩れる。審判が慌てて止めに入るほどの一撃だった。
「一本、朱音──勝者!」
観客席が騒然となる。
拳を引いた朱音は、静かに構えを解いた。呼吸も乱れていない。見た目こそ少女だが、その佇まいには猛獣のような重圧があった。
控え室のモニターでその試合を見ていたきらりは、無意識に立ち上がっていた。
(強い……!)
身体の芯が震えている。恐怖でも、敗北感でもない。むしろ、昂ぶりに近い感覚だった。
(この人と……戦いたい)
自分の拳がどこまで通用するのか。“舞う拳”が、朱音の“力の証明”に届くのか。
胸の奥が、熱くなる。
そのとき――モニター越しに、朱音がきらりの方を見たような気がした。画面の中で、わずかに笑った。
まるで「おいで」と言うように。
「絶対、行くから」
きらりは小さく拳を握った。
リングの先に、決勝の舞台が見えてきた。