第2話『舞う拳、導かれた道』
日曜の午前、薄曇りの空の下。
「……ここか」
商店街を抜けた住宅街の一角に、古びた看板が掲げられていた。
《空手道 天翔館》
木の扉を開けると、汗の匂いとともに、乾いた気合いの声が飛び交ってくる。
「正拳突き、いち! にっ!」
道着姿の少年少女たちが、鏡の前で真剣な表情で動いていた。
端に立つ白髪の男──師範・古賀が、じっと見守っている。
きらりは緊張しながら、入口の前で深く頭を下げた。
「……すみません。見学、させていただけますか?」
古賀がこちらを一瞥し、ゆっくりと頷く。
「そこに座っていなさい。邪魔をしないように」
無愛想な声。だがきらりはほっと胸を撫で下ろした。
黙って壁際に座ると、稽古が再開された。
──動きのリズムが、呼吸に乗っている。
──全員の足音が、床に正確なリズムを刻んでいる。
「……綺麗」
思わず口から漏れたその言葉は、きらりにとっては最高の賛辞だった。
•
「今日はここまで。型を見せたい者はいるか?」
稽古の終わり、古賀がそう言うと、一人の茶帯の少年が名乗り出た。
少年は「平安二段」と言われる型を演じ始める。
それをきらりは、じっと見つめていた。
ダンスを覚えるときと同じ集中の仕方。視線、重心、腕の角度、すべてを頭ではなく身体に叩き込む。
やがて型が終わり、見学者のきらりに、古賀がふと声をかけた。
「君、どう見えた?」
「……まるで、水の流れみたいでした。静かな湖面に、風が通るみたいな」
「……変わった感性だな」
古賀は少し興味を持ったのか、「試してみるか?」と問いかける。
「動きだけ、真似してみなさい。さっきの型でいい」
「え? あ……はい、やってみます」
きらりは恐る恐る前に出て、深呼吸。そして、ゆっくりと型を始めた。
──ひとつ目の受け、突き。
──二歩目の足運び、腰の沈み。
──三つ目の回転と、踏み込み。
「…………」
道場内が、静まり返った。
「正確……すぎる……」
「たった一回で……」
「あの足さばき、腰の切り方、マジで……?」
ザワつく声の中、古賀だけが黙って腕を組んでいる。
やがて、きらりが一礼し、元の場所に戻った。
「……すごい。振り付けと同じ感覚でした。リズムで覚えて、流れを体に通すと、自然に……」
古賀がゆっくりと口を開いた。
「……確かに、動きは正確だった。だが、“意味”がない」
「……意味、ですか?」
「空手の型は、舞ではない。相手を想定し、命を守る“型”だ。意味を通さねば、空っぽの真似事に過ぎん」
きらりはその言葉を、素直に受け止めた。
「……ダンスも同じです。“振り”をなぞるだけじゃ、心には響かない。伝えたいことがあるから、“踊り”になる」
古賀がほんのわずか、目を見開いた。
「ふん……面白い娘だ」
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数日後。
「じゃあ明日から、見習いでいいから来なさい。ただし、型は教えん」
そう告げられたきらりは、両手を膝の上に置き、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
掃除、雑巾がけ、水くみ、ストレッチ、基本の体力作り。
見習いの1ヶ月は、地味で単調なものばかりだった。
だがきらりは、ひとつひとつに意味を探していた。
「この足運びは、あの回し蹴りの準備動作かも」
「このスクワット、重心を沈める稽古なんだ……」
アイドル時代に培った観察力と体幹が、思わぬ形で役に立っていく。
きらりの中で、音のない「舞」が、少しずつ形になり始めていた。