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小柴からみなさまへ

 きわめて個人的な性格の話として、「世界は広い」とか「世界は狭い」みたいな言い回しを、あまり遣わないようにしている。それは私にとっては言うまでもなく、その表現が『かれら』を想起させるからなのだけれど……。でも、ま、ここからは一般論として聞いてほしいところで、「世界は広い」とか「世界は狭い」なんて言葉は、まるで「世界には限界がある」という前提を置いているかのように聞こえないだろうか?


 もし世界が無限に広がっていると思っているなら、そんな、大きめの動物園を見たときのようなリアクションは、けっして取らないはずだ。私たちの世界には柵がある。私たちは生きている限り、その柵の外には出られない。そういう前提の上でしか、さっき言ったみたいな言葉は出ないと思う。


 だって、広いというのは範囲が大きいという意味でしかなくて、そして、範囲は限られた領域のことでしかないんだから──。


 海も「広い」し、街も「広い」し、空も「広い」。あるいは、学校は「狭い」し、地元は「狭い」し、家庭は「狭い」。世界は箱庭で、水槽で、ショーケースで、檻で、ゲームで、ゆえに絶対に限界がある。そして、そのことを私たちは無自覚に意識している。


 それはたぶん、目から見える映像の範囲が、実際には瞼の裏などの遮蔽物で簡単に狭められてしまえるのと、けっこう同じようなことなんだろうと思う……。


 つまり。

 一つ一つの世界は有限で、そこに『仕切り』がある。


 だとすると、と、私はさらに、こう思うんだ。


 仕切りがあるということは、隣にも何か別のものがあるんじゃないか。

 この世界の隣には、別の世界があるんじゃないか?


 それはいわゆるマルチバースとかいったことだ──平行世界論。パラレルワールド。イフの場合。多元宇宙論。世界は、私たちのいるこの世界のほかにもたくさん存在しているのかもしれない──そんな話。


 世界は箱庭で、水槽で、ショーケースで、檻で、ゲームで、ゆえに絶対に同型物がある。世界なんてのは一山いくらで、神様のパソコンでコピーアンドペーストすれば、簡単に量産できるのかもしれない。誰がどんな風になっている世界も、何がどこにある世界も、少しでも可能性のある世界は、すべて存在するのかもしれない。


 ただ、それでも。

 個人がいられる世界の数は、原則、常に一つだし。

 個人が知ることのできる世界の数も、基本は一つ。


 とある時期までは──私もそんなふうに、思っていた。

〈あとがき〉

 あとがき、というか、この回自体が作品全体に対する前書きみたいなものなので恐縮なのですが、ところでみなさんは世界という言葉を聞いて何をイメージしますか? 海外とか、宇宙とか、心とか、物語とか、人によって色んな言い方があると思います。

 まだそんなもんねーよ、って方。大丈夫です、ここに名案があります。今日から「自分は『世界』という言葉を聞くと『小柴ミラクルマルチバース』という作品を連想するんだけど……」というふうに認知を捻じ曲げ、それをぜひぜひ、皆様の周りの皆々様に、大きな声で、耳元で喧伝してやってください。それがこの作者を喜ばせる、最も効果的なやり方です。

 人の数だけ世界があります。中にはあなたが来てくれるのを待っている世界があるかもしれません。そういう話です。がんばります!

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