第94話 その後のこと
キシュルの悪行はその一切が大陸中に公開された。
それはヒルマニア王国民の解呪状況を確認するうえでも、国家元首という地位にあるキシュルを正しく裁くうえでも避けられぬことであり、当然ながらヒルマニア、ヨルドともが大混乱に陥った。幸いだったのはヒルマニア側に証人が揃っていたことと、キシュルの息がかかっていないヨルド政府高官たちが極めて真っ当にして善良であったことか。両国協議の末、ネルチャグシュッツ・キシュルは大陸を脅かす大罪人として断罪されることが確定、同時に“果実”についての調査も始まっている。
当然ながら、ことはキシュルだけに収まる話ではない。
ヒルマニア王国現王アーヴァルカイド、その息子ヴェルハドゼールの王族二人もまた、かの男に与しヒルマニアを脅かし続けた者として、キシュルに並んで裁きを受けることとなる。五百年以上にも及ぶ王族とキシュルとの関係も全てがつまびらかにされ、そうなれば当然、ヒルマニア国民たちからは王族への激憤も立ち昇ろうというもの。下手をすれば王権打倒の声すらもあがりかねない状況、それがギリギリで回避されたのは、王族による国への裏切りを暴き誅したのもまた、王族だったからだろう。
アーヴァルカイドから剥奪された王としての権限は、速やかに第一王女ネルヴォラニアへと委任された。
肩書としてはまだ王女ながらもひとまずの最高責任者となった彼女が、かねてより内政を司り国民によく知られる存在だったからか。あるいは王と王子を忖度なく断罪し、今後王家は持てる全てを賭して国民へ贖罪し、尽くすと誓ったからか。あるいはその言葉通り、現在なによりも優先して解呪状況の調査を行っているからか。ともかく、ネルヴォラニアまでをも憎む者は国民の中にそう多くなく、委細を伝えられた王国貴族諸侯の助力もあり、ヒルマニアはすんでのところで王国としての形を維持できた。ゆえに、ネルヴォラニアの女王即位の日も近い。
そして、王権の維持に寄与したのはネルヴォラニアの振る舞いのみにあらず。
第二王女ヴィヴィアラエラのしてきたこともまた──こちらは英雄譚めいた話として、瞬く間に国中に広まった。
ヨルド周遊に際してキシュルの本性と悪行を知り、単身その手から逃れ、その後は再会を果たした旧知の者の力を借りつつ自力で大陸を横断。かの恐ろしき“北端山脈”すらも越えて王国への帰還を果たし、姉とも力を合わせ巨悪を退けた。出来過ぎなくらいに出来過ぎた十七歳の王女の冒険譚だがしかし、事実としてキシュルの悪行は暴かれたのだから、誰も彼女の旅路を否定することはできなかった。美しさで知られたヴィヴィアラエラの名はいま、逞しく勇敢な英雄の呼び名ともなりつつある。
──そして、英雄と呼ぶならば紛れもなく、ユリエッティの名も。
家名なきユリエッティといえば、貴族殺しのテトラディを討った冒険者のものとして知られていた。貴族、王都、テトラディの被害を受けた領地を中心に広まっていたその名声は、ヨルドでの指名手配という冤罪で一度汚名となり。しかしそれすらもキシュルによる姑息な妨害工作、それを退け、王女の刃となってかの者を打倒した。なによりも、子を成すを阻む悍しき呪いを絶ったのが彼女の拳であるというのだから、国民としては誰よりも彼女こそが、自分たちを救った英雄だとも言えた。
そんな家名なきユリエッティが、かつては王国の高位貴族としてヴィヴィアとも既知の仲にあったという話まで広まってしまえば、民たちはなおのことそこに物語を見出す。王女の危機に運命的に居合わせたのだとか、いやいやユリエッティの貴族社会追放すらもが、暗雲を察知した王女姉妹の計略の内の一手だったのだとか、まあ好きに噂が飛び交っている現状。意図してヴィヴィアやユリエッティの冒険譚を流布させたネルヴォラニアにしてみれば、それで少しでも王族への信頼が取り戻せるのなら、という算段であったが。
ともかく、そんな噂の英雄ユリエッティが、キシュル打倒から数週間ほどが経ったいま、どこでなにをしているのかと言えば。
「──バルエットの処遇は聞き及んでいるな」
「ええ。というか直接話しましたわ」
王都は貴族街、シマスーノ公爵邸にて、へディルノード・シマスーノ公爵と顔をつき合わせていた。
「……そうか。私も先日、顔を合わせてきた」
自らの書斎で腰を下ろすへディルノード──かつてユリエッティの父であった公爵は、額に手を当てて溜め息をついた。オールバックに固められた黒髪も鋭い目付きも、ユリエッティの目には知る姿よりも随分と憔悴して見える。それは、息子にして時期当主であるバルエットの愚かな振る舞いによるものでもあり、しかしシマスーノ家の家令たちによれば、ユリエッティを追放した辺りから徐々に、へディルノードの覇気が失われていったという話もある。まあなんにせよ、いまユリエッティの眼前に佇む男は、王国高位貴族の一角その当主にしてはいささか威圧感に欠ける様子だった。
「初めて第一王子の周遊に同行した際に、偶然にもキシュルの本性を知ったとか言ってましたわね」
「何故そこで正す方へと動かなかったのか、あの馬鹿息子は……いや、あいつの器を計り損ねた私の落ち度か」
真実を知ったバルエットの選択は、キシュルに与することで呪いの弱化という恩恵を賜り、子を成し、王国貴族内での発言力をより高めるというものだった。本妻と妾とのあいだに子どもが一人ずつ、現代の貴族社会ではそれだけで“力”の誇示たり得た。また同時に、王や王子と秘密を共有することでより彼らに近づくこともできると、そういう、権力への執着からの行動。当然ながら全てが暴かれたいまとなっては、彼もまた極刑に処されることからは逃れられない。身柄の重要度で言えばキシュルや王族よりも遥かに低いバルエットの斬首執行は、近い日に始まるキシュルの配下の者たちの絞首刑に次ぐ順となっている。
「……あれの首が飛ぶことは当然のこと。もしそうでなければ私の方から嘆願したくらいだ」
言いながらもへディルノードは、瞳に悲しみの色をほんの僅かに浮かべ……そして瞬き一つの内に、シマスーノ家当主の顔を繕った。
「……問題は我がシマスーノ家の未来だ。私はもう、バルエットに家督を譲る寸前だった」
「あら不思議、跡継ぎがいなくなってしまいましたわ。ご隠居計画がパーですわねぇ」
「……私が若い内に子を二人も成せたのは奇跡という他ない。キシュルの所業を聞いた今となっては、なおのこと」
「ええ。お母様が存命であれば、まだまだ励めたかもしれませんけれども」
「……ふん」
美しく逞しかった(ふてぶてしいとも言われた)シマスーノ公爵婦人は、しかし誰もが驚くほどにあっさりと、ユリエッティが幼い頃に病で命を落としている。以降後妻を取ることもなく、へディルノードは独り身のまま。
また、バルエットの子どもは二人ともまだ幼い。残された母二人の心中もまだ混乱しきりで、いずれ家督を継がせることができるのか、それすらも分からないのが現状。ではへディルノードがいまからでも血を継いだ後継ぎを……というのは、年齢と現状の疲弊ぶりからして難しいだろうと、ユリエッティにも理解できた。
となると外から養子を取るか。現代のヒルマニア貴族ではさほど珍しい話でもなく、とはいえ筆頭貴族の一角たる公爵家でそれは、いや公爵だからこそその家を絶やすわけにもいくまいか。くるくると、ここに至ってどこか他人事のように、ユリエッティは考えを巡らせていた。キシュルの呪いの打破という国への最大の奉公を成したいま、彼女の中での貴族たれなかった負い目は、緩やかに消化されている。まだ先は長いが、しかしある種の満足感すらある状態。だからこそ、へディルノードの次の言葉を予測できなかった。
「……虫の良い話だとは分かっている。私個人などどう扱ってくれても構わん」
「……?」
「ユリエッティ。シマスーノ家に戻り、家督を継いで欲しい」
「…………マジですの?」
「ああ、本気だ」
「……それは確かに、虫の良い話ですわねぇ」
目を丸く見開き、ユリエッティは父であった男を見据える。同時に、緩んでいた思考が急速に引き締まっていく。
「……わたくしに貴族は向いていないということは、貴方が一番よく分かっているのではなくて?」
「ああ、そうだろうな。だが今のお前には大命がある。そうだろう」
「ええ、まあ」
国民全員の完全解呪を確かめることこそが王女ネルヴォラニアの目指すところ。そのために可能な限り尽力すると、ユリエッティは誓っている。つまり今後も、王家との繋がりは強く維持されるということ。どちらにせよ、王侯貴族という枠組みからユリエッティはもう逃れられない。
「であれば肩書きは必要だ。そして肩書ということであれば、長く続く公爵家ほど強力なものはない。王族と関わっていくのならば、なおのこと」
「ええ、ええ、それはまあ」
「案ずるな。その次の代は、バルエットの子を私がどうにか説得する。あいつの妻たちにも、可能な限りの支援をする。お前はその間の繋ぎだとでも思って、気楽にやってくれて構わん」
「繋ぎとはまた、はっきり言いますわねぇ」
それがへディルノードなりの気遣いであると、ユリエッティには理解できた。彼女の冒険譚を知り、やはりユリエッティは貴族らしい貴族という形では生きられないのだと、理解したうえでなお役目を押し付けようとする、せめてもの贖罪なのだと。
「へディルノード公爵様。貴方は本当に、貴族らしい貴族ですわ」
家の存続と、それによる国への寄与を第一に考える。そのためならば息子の罪を庇うこともなく、追い出した娘をも呼び戻す。弱っても変わらないへディルノードの根幹に、ユリエッティは苦笑を浮かべた。そして少しだけ考えて、もう一度口を開く。
「……確かに。なんのかんのとこれが一番、収まりが良いのかもしれませんわねぇ」
実のところ、ネルヴォラニアの側からもそれとなく匂わされていた、というのは口にはしないまま。
「では」
「ただし、条件がありますわ……と言っても、わたくしが当主になるのであれば、貴方にはなにも邪魔立てできませんけれども」
「……ああ、全くもってその通りだ」
「ご心配なさらず。ほんの些細な、娘からのお願いですわ。ねぇ、お父様?」
ユリエッティの──娘の顔に浮かんだ鷹揚な笑みを、へディルノードは懐かしい気持ちで眺めていた。
第100話での完結を予定しておりますので、よろしければもう少し、お付き合いのほうよろしくお願いします。




