第93話 今この時のために
投稿が遅れがちになってしまっており申し訳ありません……
「ワガママが過ぎるとは思っていましたが……本当に、どこまでも下劣な男ですわね」
ユリエッティの声は平坦ですらあった。キシュルを見下ろすその瞳も、一見して冷たく凍てついているよう。だがヴィヴィアが感じ取った通り、内に宿る憤怒はある種の一線を越え、青白く滾っていた。
ヒルマニアへの許しがたい攻撃は、百年どころか五百年にも及んでおり。その理由は侵略ですらない、フられた腹いせ。動機はあまりにも幼稚で、けれどもやっていることは恐ろしく、そして非道。アヴィスティリア本人へ害意を向けるのであればまだ、一万歩ほども譲ればまだ話は分かる。だがそうではなく彼女の血を、彼女が愛したであろうヒルマニアという国そのものを、緩やかに滅びへと連れ行き穢す、思いつく限り最低の所業。
考えれば考えるほどに血が巡っては引き、むしろ自分が段々と冷静になっていくのを、ユリエッティは感じ取っていた。
「……その魔法だか呪いだかを解くまで、お前を痛めつけたって良いのよ」
留められたヴィヴィアに代わって、ネルヴォラニアが強気に出る。が、その崩れた口調からして、彼女も平静ではいられないことは明らかで。
「そうか……ならば、やってみるが良い……」
対するキシュルは破壊された顔面でただせせら笑うのみ。それは、狂気的な妄執によって動くこの男に、尋問や拷問の類などは通用しないことを表していた。この中でもっともその手法に長けていると自負するファルフェルナですら、それを諦めるほどに。
「……マジで意味分かんないけど、でも魔法だってんならユリが破壊できるだろ。なっ?」
次いでこぼれ出たのはムーナの言葉。王女二人がハッと顔をあげる。あまりのことに思考も止まってしまっていたが、そうだ、希望はすぐ目の前にあると。
「……ああ確かに、お前の拳であれば……あるいはいつかは、この魔法をも破壊できてしまうのかもしれないな……」
キシュル本人ですらも認める。けれども声音と表情はやはり、勝ち誇ったような喜色がこびりついたまま。それが皆の不安を煽る。
「だがそれはいつになる? 今すぐに、今日明日にでも呪いを捉えられるか? 心血を注いだ我が魔法の粋に、そう容易く触れられるか? この五百年、誰も解呪できなかった魔法に。そしてその上で、何を殴る? 年月を経たこの魔法はもはや、ヒルマニア国民一人一人の血の中で蠢いている……仮に破壊できたとして、くく……全ての民を並べて、順に平手でも食らわせていくか?」
「……ええ、それもありですわね」
「そうか、ならば励むが良い……短命種の、その全てを費やして。だが忘れるな。ただの一人でも呪いが残っていれば……ふっ、その血がやがてまた広がる可能性があることをな……くく、くくくっ……」
長々と煽り立てた末、キシュルは嗤っていた。
対して、ユリエッティは表向き静かなまま。
人口は減り続けているとはいえ、ヒルマニアはやはり、この大陸に二つしかない国の片割れである。国土は広く、そして大国として成り立つ程度には民もいる。また、強力な魔法を砕く際には、ユリエッティも相応の体力を消費する。キシュルの言ったようなやり方で呪いを解こうとすれば、とてつもない時間と労力が必要になるだろう。ユリエッティの人生すべてを食い尽くしなお足りるとも分からないほどの。
それでも良いと、ユリエッティは思っていた。もとより国に、民にと尽くすのが貴族の役目。生まれ落ちてから死するその時まで与えられた、地位と引き換えの果たすべき責務。それに殉ぜられるというのならば、悪い話ではないと。
「……ですがどうせなら。試せることは試してから、ですわ」
血の巡りとともに、思考も巡る。怒りのあまりクリアになったユリエッティの頭は、キシュルの嘲笑すらも燃料に変えて稼働する。自身に秘められた力とアーヴァルカイドの言葉を、ユリエッティは順に思い返していた。
(ポテンシャルはある、はずですわ。この手には)
例えば『風倪竜』との戦いのとき。魔力風弾に抗すべく繰り出した拳は、竜の纏う全ての風を打ち払った。例えばキシュルの夜襲から逃れたとき。迫る追尾弾を破壊した拳は、諸共に空間跳躍の魔法すら無に帰した。例えば“北端山脈”の古竜を下したとき。外殻の魔力的補助を砕くつもりで放った拳は、もののついでのようにキシュルの隷属の魔法までをも粉砕した。
(もし……わたくしが本当に、この国に報いることができるのであれば)
握りしめた自らの右手へと、視線を落とすユリエッティ。
いままでにこの手でしてきたことと言えば、女を愛でるかなにかを殴るか、おおむねそのどちらかだった。それに不満を覚えたことはなく、むしろそうであったからこそ、ヴィヴィアをここまで連れてこられた。自らの意思で、今この場所にまで辿り着いた。そこにはきっと意義があるはずだと、拳を見据え強く信じる。
(五百余年も苦しんだヒルマニアに、さらに長らくの忍耐を強いるなどと……それですら解放される保証がないなどと、そんなことは言わせませんわ)
呪いを捉えられるか。触れられるか。なにを殴るか。アーヴァルカイドは言っていた。呪いはアヴィスティリアを媒介に伝播したと。王族の血への影響が、もっとも著しいものだったと。ならばまずは。
「チェリオレーラ」
「ゆりえってゃ」
精霊へと呼びかける。観測者を自負する存在は、けれどもこの時ばかりはなんの躊躇いもなく返事をした。怒りが沸点を超えているのは、彼女もまた同じなのだから。人が減れば騒乱は減る。騒乱が減れば変遷は起こり得ず、そしてやがては滅びゆく。精霊とは根本的に、人類種を推す存在。チェリオレーラは人類種に繁栄を齎す者を推す存在。ゆえにそれを妨げるキシュルを許すはずがない。
「わたくしならできると思いますかしら?」
「あっっっっっっったり前です!!! こんなねぇ、ただ歳だけ食って中身はどうしようもないような小童にねぇっ、てゃは負けないんですよっ!!!!」
寸暇もなく返ってきた言葉は、どこか夜襲のあの時を思い起こさせる。星の巡りは満ち満ちているのだと、その自覚を持てと怒鳴られた、あの瞬間を。
「ふふ、ありがとうございますわ」
先の一撃は、ムカつくからぶん殴るという気持ちだった。ならば次は今度こそ、大悪を誅すつもりで。キシュルの悪行を砕き、国を救うのだと。自分はそんな星のもとに生まれたのだと信じ切って。力を自覚し、使命を自覚し、もう一度……いや、もう二度、拳を振るう。
「国王陛下」
「……何だ」
「一発ぶん殴らせていただきたく思いますわ」
「私は、お前の力とやらがどういうものなのかまだ把握できていな──」
「許可します、思いっきりやりなさい」
「感謝いたしますわっオラァッ!」
「グォォッ……!?」
ネルヴォラニアが頷いた次の瞬間には、アーヴァルカイドは頬を殴られ床を転がっていた。威力という意味では十分に加減した右ストレート。砕けよと、呪いよ終われと籠められた意思は十二分。直後にはムーナがピクリと耳を震わせた。
「なんか……なんか変わった気がする。ちょっとだけど」
「ほう」
「なんていうんだろうな、これ……ずっと曇りだったところに晴れ間がさした、みたいな? いや違うな、ずっと曇りだったことにいま気付いたみたいな……」
「中々ポエミーな表現をするじゃないですか」
「うっせぇ。アタシもビビってんだよ」
ファルフェルナに茶化されてひん曲がるムーナの口元は、もう引きつってはいなかった。なにが変わったかと問われると判然としない、強いて表すならば取り巻く全てがとでも言うほかない、そんな感覚をムーナがぽつりぽつりと口にしだす。
「……末恐ろしい女だ。恐怖すら覚える」
決定的だったのは、思わずといったふうに漏れたキシュルの言葉だった。倒れた玉座のすぐそばで、その顔はつまらなそうに歪んでいる。
「ほ、本当に、呪いが……っ?」
「……だが、ふ、ふふ……今代の王一人を救ったとて、国に蔓延る呪いが無くなるわけではありませんよ」
それでもヴィヴィアの言葉を即座に切って捨てる辺りに、悪辣さが見て取れるが……しかし、その纏わりつく情念を払うようにして、ユリエッティが前に出た。
「ええ、そうかもしれませんわね。なので次は貴様ですわ」
「愚かな……どれだけわたしを殴ったところで、国に染み付いたこの魔法は消えんぞ」
「それはやってみなければ分かりませんわ」
キシュルの胸ぐらを掴んで立たせ、右手の拳をもう一度握り込む。そしてユリエッティは強く思う。魔法よ、呪いよ、全ての不条理よ、この男に端を発するあらゆる災禍よ、砕け壊れ、消えてなくなれと。
王は言っていた、キシュルの呪いの原理などは知らないと。対する傲握流の原理はよくよく体に染み付いている。拳に魔力を循環させる、ただそれだけ。魔力を操る竜の生態にすら干渉する技法は、師すらも凌駕するこの力は、今この時のために得たものなのだと強く信じる。
威力を予見したファルフェルナが、王女らを下がらせた。それを確かに見届けてから、ユリエッティは肘を引き、大きく息を吸う。
「スゥ──」
一拍。
「無駄だ、わたしに何をしようと──」
「──オラァアッッ!!!!」
それだけで部屋が揺れるほどの咆哮とともに、ユリエッティの生涯渾身の一撃が放たれた。
「ッ!!!」
悲鳴すらも潰されたキシュルの体が、地面へと叩きつけられる。床が陥没し、四方へと振動が伝播していく。しかしそれは城の崩落を招くものではなく、むしろ目に見えぬ重圧を吹き飛ばすかのような一撃。どこまでも突き抜けていくような、力強い波動。
「っ、今、なにかっ……!」
ヒルマニア王国の中央に位置する王都王城の、全ての中心たる王の執務室。そこからなにかが変わったと、今度はヴィヴィアにも知覚できた。ムーナなどはもう目を見開いてすらいる。まるで、見聞きする世界そのものが変わったかのように。彼女もまたヒルマニアの者であり、その体にはキシュルの呪いが巡っていた。壊されて初めて、自分たちは呪われていたのだと気付く。ファルフェルナも、ネルヴォラニアも同じく。
「……殺したのか」
「……いいえ、陛下。ギリ生きてますわ」
起き上がったアーヴァルカイドが問えば、ユリエッティはよろめきながら一歩引いた。顔は先ほどまでと違う意味で青白くなっており、そっと近寄ったネビリュラに支えられてどうにか立っているような状態。
対して、床に埋没したキシュルの顔面はほとんど肉塊と化し、細長く伸びていた片角も粉々に砕けていた。四肢から指先に至るまで微動だにしない。
「これでまだ生きているのだから、気色の悪いしぶとさという他ないですが……まあ、予後を考えれば今はまだ生きていてもらったほうが、都合が良いかも知れませんわね」
「……本当に、呪いを全て破壊したのか」
「……お、恐らくは」
「いや、そこで弱腰になるなよ」
「だ、だってムーナ、やっておいてなんですがさすがに確証は持てませんわ」
「たぶんイケたんじゃないかと思うけどなぁ。明らかに体の感覚変わってるし」
「……私の体の状態も、呪いを弱められた時と近しい。いやそれよりもずっと晴れやかだ」
「少なくとも、この小童の纏っていたいやーな気配は消え去ってますね」
呪いをかけた者、その媒介とされた王族、そして国そのもの。二度の殴打で三つを殴り、確実になにかが変わったという確信はユリエッティにもあった。精霊も点滅著しく頷いている。だがなにぶん前例のない規模の話であり、“成せる”と思って拳を振るいはしたが、実際にどこまで“成せた”のかはこの場では判断がつかない。激憤を解き放つような一撃の反動で心身ともに弱っているとなれば、なおさらに。
であればこそ、そんなユリエッティに代わって、眼力を取り戻したネルヴォラニアが口を開く。内政に注力し、知らずともキシュルの呪いと戦い続けていた彼女だからこそ、開けた活路へと誰よりも先に進む。
「──呪いとやらは破壊可能で、壊されればそれに気付けることも明らかになった。この場にいる皆は、間違いなくそれを感じ取った。これだけでも言葉に表せないほどの偉業です。解呪の感覚が明確にあるのならば、国民への聞き取り調査も可能。まずは状況の把握を最優先し……」
そして、と一度言葉を切り、ネルヴォラニアはユリエッティをいま一度見据えた。かつては公爵家の令嬢であり、そしていまは一介の冒険者に過ぎない家名なきユリエッティを。
「場合によっては、貴女の人生を国に捧げていただくことになるでしょう」
頼み込むのでもなく、命令するでもなく、そうと断言する物言い。
受けてユリエッティは、いまできる精一杯に背筋を伸ばし、鷹揚に笑んで返した。
「ええ、勿論。必要とあらば、国民全員ビンタ行脚でもなんでもやってやりますわ〜」
「ふっふ、その時は師として私も同行しますとも。というかキシュルを実験台にして、私も呪いを壊せないか色々試してみたいところですね」
「わ、わたしも傲握流の心得はありますし、どうにか助力できないでしょうか……」
「何気にヴィヴィアは、こいつの魔法を一度壊した実績もありますものねぇ」
「ほーぉそれは負けていられませんね。我が流派にまだ伸びしろがあるとは、まったく弟子様々です」
「アタシも、まぁ……付いてくだけならできるか」
「観測ならこのチェリオレーラに任せてくださいっ!」
ユリエッティを中心に、未来への展望を話し出す。ネルヴォラニアはそれを嬉しそうに眺めつつ、てきぱきと各所へ連絡を取り、ひとまずこの場──死に体のキシュル、天井に突き刺さったままのナルグ、ほぼ忘れ去られていたバルエット、瀕死の私兵どもの転がる崩落寸前の執務室の状況整理に動き始めた。
現王アーヴァルカイドはもうなにを言うでもなく、ただ沙汰を待つように佇むだけ。
……そうして空気もいくらか弛緩し。ここでようやく、正直なところ呪い云々に関しては完全に蚊帳の外であったネビリュラが口を開いた。
「……ひとまず、一件落着」
「ええ。少なくとも妹……貴女の友人を脅かす輩については」
独り言のつもりが当然のようにネルヴォラニアに返事をされ、もにょぉ……と微妙な表情を浮かべていたが。




