第92話 五百年の呪い
「ぐっ、ゴボォァ……!!」
防護魔法を砕いたという確信、それとキシュルの悲鳴をユリエッティは同時に感じ取った。
直撃の寸前に拘束を解いたネビリュラとファルフェルナのあいだを、殴ったほう殴られたほう両者諸共に凄まじい速度で通り抜けていく。壁を二度ぶち抜いて部屋を二つ跨ぎ、その先の通路の壁にめり込む形でキシュルはようやく停止した。
「グ、バカな゛……っ!」
鼻先が潰れ、濁った声でうめくキシュル。治癒の魔法を使おうとする彼の前に、人影が一つ。
「はい、どうも」
追撃のチャンスを決して逃さないファルフェルナが、すでに追いついていた。右腕を振り上げてキシュルの顔面を殴る。なにも遮るもののない状態での傲握流グランドマスターの拳は、痛みと衝撃のみでキシュルの魔法を中断させた。
「流石は我が弟子、と言う他ないですねぇ」
「ゴ、ボ……ァ゛ッ……!」
額、鼻先、喉元、胸部、みぞおち、腹部。正中線上の人体の弱所へと、順に拳を叩きつけていくファルフェルナ。一発撃ち込むたびに壁にめり込み、ちょうど六発目で貫通して壁向こうの部屋へ抜け、床に倒れ込むキシュルに馬乗りになってさらに追撃を加え続ける。傍目には拳術などとは呼べないような野蛮な有り様ではあったが、ファルフェルナの表情だけは変わらず飄々としたものだった。
「色々聞きたいことがありますのでね。死なない程度にボコします」
「……、……っ」
ほんの僅かなうちにキシュルは悲鳴すらあげることがなくなった。そこからさらにもう少しダメージを与え、入念に無力化してから、ファルフェルナはようやくその手を止めた。両拳は赤黒い血にまみれている。
通路の一つ前の部屋でどうにか受け身を取っていたユリエッティが、肩で息をしながら師の元へと歩み寄った。
「助かりましたわ、師匠」
「それはこちらの台詞です、我が弟子よ」
短いやり取りとともに、美貌が見る影もなくなったキシュルを縛り上げていく師弟。全身を拘束し、魔法による反撃には常に警戒しつつ、朦朧とした様子のキシュルを引きずっていく。
「今のはなに」
「わたくしとムーナの必殺技ですわ」
「良いですね必殺技。浪漫があって」
「……意味が分からない」
三部屋戻ってネビリュラと合流し、軽口を叩きながらさらに一部屋戻る。瓦礫と私兵たちの転がる執務室では、アーヴァルカイド王とバルエットを見張るような形で、ムーナ、ヴィヴィア、ネルヴォラニアが待っていた。
「殺してはいないのだな」
「……ええまあ。色々と、聞かねばならないこともありますもの」
ユリエッティらへと真っ先に声をかけたのは、壊れかけた玉座に座るアーヴァルカイドだった。光輪による拘束はまだ解かれないまま、ただただくたびれた表情で頷いている。
「それは重畳。此奴を殺してしまえば、もはや我らに道はない」
「……お父様。何を知り、隠しているのですか。もう全てを話されても良いのではないですか」
「話す義務がある……いえ、はっきり申し上げますが父上。貴方は罪人として、知るその全てを話さなければならない」
王女姉妹に言葉で諭され、引きずられてきたキシュルを見下ろし、それでようやく観念してか、アーヴァルカイドは再び口を開いた。
「…………よかろう。これはアヴィスティリア女王以降、歴代の王とその後継者のみが知ることだ……このバルエット卿のような、たまの例外もありはするが」
重く低い声音に、誰もが耳を傾ける。
「結論は一つ。ここ数百年にかけて我が国で起きている出生率の低下。その全ての原因はこの男、ネルチャグシュッツ・キシュルにある」
「……それは、活力剤による民たちへの悪影響、という──」
「そうではない。アレはいわば……たちの悪い追い打ちのようなもの。そもそもなにゆえに、この国はこう長らくも子が減り続けているのか。どのような対策も意味を成さないのか。それはひとえに、此奴がこのヒルマニアという国にかけた呪いによるものだと。私はそう言っているのだ」
「なっ……!?」
驚愕の声をあげたのは、はたして誰だったのか。ヴィヴィアかネルヴォラニアか、ユリエッティか。ともかく誰もが目を見開くあいだにも、王の言葉は続く。
「当然ながら、私もその場に居合わせたわけではない。ゆえに委細全ては、特に当人らの心情などは知る由もないが……起きたことだけを言うなら簡単な話だ。およそ五百年前。キシュルは時の王女アヴィスティリアに惚れ込み、近づき、そして選ばれなかった。結果、此奴は我々に呪いをかけた。そう、ヒルマニアに」
古い古い呪いだ、とアーヴァルカイドは重々しく溜め息をついた。
末代までも蝕み続け、子を成す力を少しずつ奪い、やがて血を途絶えさせる。そんな魔法。そして厄介なことに、キシュルはそれを、ヒルマニアという国そのものへとかけたのだと。
「原理などは知らぬ。だが事実として、女王となったアヴィスティリアを媒介に、キシュルはその呪いを国中へ浸透させた。その効果はまさしく、あの果実と似通ったところもある」
とくに王族への影響は著しく、女王アヴィスティリアから三代ほども経た頃にはもう、ヒルマニア王家の血はまともに子を残せないほどに弱まっていた。そして、ちょうどその時期のことである。行方知れずとなっていたキシュルが、再びヒルマニア王家の前へと姿を現したのは。
「……キシュルを殺さなくて良かった、というのは」
「呪いを弱めることができるのが、用いた本人である此奴だけだからだ。我ら王は代々この話を先代から聞き受け継ぎ、キシュルの機嫌を窺い、どうか王族だけでもと、呪いを弱めてもらっていた。隷属と引き換えに、王家の血を繋いできた」
「キシュルに従うことが国のためだ、というのは」
「ヒルマニアは王国だ。我ら王族の血が途絶えてしまえば国は、崩壊する」
「……だから、全て言いなりになってきたというのですか」
「そうだ」
堪えきれず問うたネルヴォラニアに、アーヴァルカイドは声音も変えずに頷くのみ。
「国民が呪われ続けるのを良しとしてでも」
「そうだ」
「“果実”がその苦しみを、加速させるのだとしても」
「そうだ」
「その果てにいずれ民が途絶え、国が滅ぶのだとしても」
「そうだ。少なくともその時まで、ヒルマニアはヒルマニアで在れる」
「…………っ!」
姉と父のやりとりに、ヴィヴィアも思わず唇を噛み締めた。
これほどの理不尽があって良いのかと。たった一人の男の、意中の女に振られた逆恨みが国民全てを苦しめ、やがて滅ぼすなどと。父の両肩に乗る重圧が、呪いが、まるで目に見えてこの部屋を押しつぶしているかのように、ヴィヴィアにはそう感じられた。
チェリオレーラの言葉が彼女の脳裏をよぎる。生まれついての天才などこの世に掃いて捨てるほどいる。長く生き、古い魔法やもはや呪いとすら呼ばれるものを修めた天才が、たまたまヒルマニアに恨みを向けたということか。目に涙すら浮かび始めたヴィヴィアのすぐ前では、ムーナが無理矢理に笑うようにして口角を引きつらせていた。
「い、いやそんな、いくらなんでも無茶だろ。国そのものに魔法かけるだとか」
「流石の私もにわかには信じられませんが……山が擬態するほどの古竜を完全に隷属させるほどの魔法の使い手であるのもまた事実」
「……山に擬態、の間違いじゃなく?」
「ええ。山が、です。老成した竜の前では自然すらもが頭を垂れる。そしてそれをも凌ぐ、遥か古くより生きる者。どんな術を持っていてもおかしくはないのかもしれません」
ファルフェルナですら、常よりも幾分か真面目な声で語っている。それがなお一層、ヴィヴィアの心に重くのしかかる。
「……こんな、こんなことが……っ」
「──ええそうです。だからヴィヴィア様……わたしの言うことには、素直に従っておいたほうが良いですよ……」
不意に、床のほうから声がした。拘束され転がされたままのキシュルが意識を取り戻し、勝ち誇ったような声で笑っていた。たとえ戦いに敗れ、顔面諸共にプライドを砕かれても、それでもなお絶対的な優位を信じて疑わない、最悪の男が。
「っ! この……っ!」
「いけませんわ、ヴィヴィア」
堪えきれず拳を握って踏み込んだヴィヴィアを、よく知った腕が抱き止める。自分を守り留めるような恋人の言葉を、けれども衝動のまま振りほどきそうになり。
「エティっ、離してくださ──っ」
そして見上げ、声も体も思わず止まってしまう。
怒りのあまり血が巡っては引いて、果てに顔色が真っ白になってしまっている。そんなユリエッティの様子など、今日この瞬間まで、ヴィヴィアですら見たことがなかったから。




