第87話 王の言葉
出立の前にはユリエッティやヴィヴィアもひっそりと、イングルト子爵邸庭園の傍らに建てられた慰霊碑に祈りを捧げた。
クレーナとの別れの挨拶はやはりあっさりとしたもの。ユリエッティは彼女の事業の発展を祈り、お返しにと終わりも近い旅路の幸運を祈られ。それからせめてもの選別にと、クレーナから一振りの直剣が贈られた。それはあくまで市販のものであり、同時、市販品の中ではグレードの高いものでもあった。
「当然のことですが、私は貴女にも感謝しているのです。テトラディの首を落としてくださった、ムーナ様にも」
「……どもっす」
というようなやり取りを経て、ムーナの手には新たな剣が収まり。一行はイングルト子爵領を発った。
◆ ◆ ◆
第一王女の公務ともなれば移動は迅速であり、かつ、人員もその多くがネルヴォラニア自身に付き従う者たちで構成されている。全ては話せずとも、少なくともヴィヴィアがここにいることは正当な事情があると、ネルヴォラニアがそう告げるだけで、彼ら彼女らにとっては十分だった。
かくして二人の王女を乗せた魔動車の一団は、最短距離で王都まで帰還。貴族街も通り抜け、その日のうちに王宮へとたどり着く。ヨルドでの逃走の日々からすれば、比べるべくもないほどに安全で速い道のり。そのことが心に幾ばくかの余裕を生み、けれどもまだ肩の力を抜くことはないままに、ヴィヴィアはついに父──現ヒルマニア国王アーヴァルカイド・ヒルマ・ダインミルドの眼前にまで至る。
「──お久しぶりでございます、お父様」
「……ヴィヴィア」
王城の内部、ほとんど駆け込むようにして訪れた王の執務室。十二分に広いその一室にいる壮年の王は、以前にヴィヴィアが見たときと比べて明らかに顔色が悪くなっていた。心労、疲弊。ひどく傷んでいるようにも見える乳白色の短髪から、そういったものが読み取れる。痩せ気味な体を外面用ではない機能性重視の玉座に預け、王はヴィヴィアとネルヴォラニア、そして後ろに控えるユリエッティの顔を順番に見回した。
「この顔ぶれに説明は必要かしら、父上」
「……いや、不要。上手く立ち回ったものだ」
察しもついたのだろうアーヴァルカイドの声には、大きなため息が混じっていた。一族に共通する薄茶色の視線をヴィヴィアへと戻し、座したまま言葉を続ける。
「ヴィヴィア。正直に言って、お前には何もせず逆らわず、ただあのお方の望む通りに振る舞って欲しかった」
ユリエッティが声を荒げなかったのはひとえに、ヴィヴィア本人が平静を保っていたからだった。静かに握りしめられた小さな拳を見て、ユリエッティもまた踏みとどまる。ただの政略婚やその類の接近とはわけが違う。ヴィヴィアはキシュルに襲われかけたのだ。それは彼我の立場に関係なく許されない行為のはず。だというのに王は、父は、それをこそ望んでいたのだと明言した。それは紛れもなく、彼が第一王子ヴェルハドゼールと同じく、キシュルに隷属していることの証左。
「お父様方がどういった理由で彼に与しているのかも、明らかにしなければなりませんが……今はそれよりも重大な報せがあるのです」
「ほう、行方知れずだった娘の帰還よりも大事な話が?」
皮肉げに、あるいは自嘲気味に、アーヴァルカイドは笑う。顔に刻まれた皺が深まり、なおのこと老いさらばえたような表情で。ヴィヴィアはそれに、ただ事実を告げることで返す。
「……ヒルマニア国内で長年流通してきた活力剤、あれには人体に対し極めて有害なものが含まれています。一時の興奮作用はあれども、長期的に見れば生物の生殖機能に異常をきたしてしまう、恐るべき“果実”の成分が」
つらつらと続くその言葉を、アーヴァルカイドは顔色を変えずに聞いていた。
「そしてその“果実”の栽培と活力剤への利用を指示していたのは、他ならぬネルチャグシュッツ・キシュルです。あの男はもう百年にも渡って、ヒルマニアの民を害し続けている」
「荒唐無稽な話、とはお思いにならないでください父上。“果実”を管理していた魔人の女の身柄も確保しています。早急に元首キシュルを糾弾しなければ」
ネルヴォラニアも一歩身を乗り出し、姉妹でその恐るべき事実を告発する。なにをもってキシュルに隷属しているのだとしても、国民のほぼ全てが直接の被害を受けているとなれば、王も目を覚ますだろうと。
「……そうか」
だが、しかし。
「“北端山脈”を越えたとは聞いていたが、そこにまで至ってしまったか」
返ってきた言葉は、ヴィヴィアたちの想定を超えたものだった。
「……は?」
ネルヴォラニアの口から、間の抜けた声が漏れる。アーヴァルカイドの表情はやはり変わらないまま。
「把握しているとも、活力剤の成分など。王たるこの私が何も知らないと思うてか」
「ぇ……? 知っ、て? …………っ……! ……知っていたのならっ。それならなぜ放置しているのです! なぜキシュルに与しているのですか、お父様!」
ヴィヴィアの声は裏返っていた。それほどまでに、アーヴァルカイドの口から出た言葉は容認できるものではなかった。
「何故、か。それはひとえに王国の維持のため。私も、息子も、前王もその先の代たちも皆、ただそのためだけに尽力している。それが王としての責務だ」
「馬鹿な……! 民を害し子を成す力を奪うことのっ、どこが王国のためだというのかっ!!」
ネルヴォラニアの口調は荒々しく、ヴィヴィアも彼女に負けず劣らずの怒りで顔を歪ませていた。もはや王も肉親も関係ない激しい憤り。しかし姉妹のそれを受けてもなお、アーヴァルカイドの自らを嘲るような笑みは変わらない。
「機嫌を損ねてはならんのだよ。五百年前、かのアヴィスティリア女王があのお方を選ばなかったその時から。我々はあのお方の顔色を窺って生きるしかなくなったのだ」
そう言って、アーヴァルカイドは左耳につけていた遠話器に一度触れた。
誰かと通話するでもなく、ただそれを目印にして、空間跳躍の魔法が発動する。
ヴィヴィアが身を構える暇もなく、ほんの数秒と経たないうちに渦中の男──ネルチャグシュッツ・キシュルがヴィヴィアの目の前に姿を現し。
「──まったく、ここまで辿り着いてしま──」
「オラァッ!!」
そして直後には、ユリエッティの拳がその顔面へと放たれた。




