第86話 子爵領にて
前第85話に関して、ムーナの服装について入れ忘れていた描写があったため少しだけ加筆修正しました。
ヒルマニア王都が国のほぼ中央に位置するのに対して、イングルト子爵領はヒルマニア北西部、王都からは北北西の方角にある。距離だけでいうのならば、子爵領など介さず“北端山脈”から王都へ直接向かうほうが近くはあるが……古竜撃破によってキシュルに動向を悟られた可能性もゼロではなく、ヒルマニア国内とはいえ道中の安全は変わらず徹底しなければならない。それに加えて国王に確実に面通しするための策として、一行はイングルト子爵領である人物との接触を図った。きっかけとなる情報を持っていたのはやはりファルフェルナ。そして、“北端山脈”に挑む前の時点で立案したのはヴィヴィアであった。
──もうおよそ四年前にもなる、テトラディの再出現と貴族殺害事件。毎年今の時期には、その追悼が各被害貴族の領地で順番に行われている。その中のイングルト子爵領での式典のタイミングに合わせてユリエッティらは子爵領に到着し、そして今、クレーナの事務所兼邸宅の応接室にて、とある賓客と顔を合わせていた。
「──なんとも、恐ろしい話です。そして、なにも気付くことができなかった自分が不甲斐ない」
すなわち、ヒルマニア王国第一王女ネルヴォラニア・ヒルマ・ダインミルドと。
「どうか自分を責めないでくださいお姉様。それほどまでに、キシュルの手が深く及んでいるということ」
室内にはソファに座って向かい合う王女姉妹と、立って佇むユリエッティの三人だけがいる。
努めて穏やかな笑みで宥めるヴィヴィア、そしてその後ろに控えるユリエッティは、いつぶりかの極めて文明的な入浴によって本来の美貌を取り戻していた。ヴィヴィアの髪の染料はもう完全に落ちてきらめく白髪へと戻っており、服装も急ごしらえではあるがクレーナの用意した最低限王侯貴族らしいグレードのワンピースに。ユリエッティは良質ながらも主張のないズボンとシャツ姿で、ソファの後ろに控えていた。
「なお一層恐ろしい……何にせよヴィヴィア、貴女が無事で良かった。ユリエッティもよくやってくれました」
「恐縮ですわ、ネルヴォラニア殿下」
立てばユリエッティに並ぶ背丈のネルヴォラニアのほうは、追悼式典のため黒を基調としたシックなドレスタイプの礼服に身を包んでいる。ヴィヴィアとは異なるなめらかな乳白色の髪は、腰の上辺りにまで届くほど。二十代も半ばの顔立ちはひと目で姉妹と分かる程度には似通っており、それでいてヴィヴィアよりも目力のある眼差しは今、妹の口から語られた驚くべき事実に見開かれていた。
「二人が揃って目の前に現れたときには、驚きましたけれども。一瞬、貴女がヴィヴィアを攫ったのかとすら思ってしまいました」
「ふふ。今はわたくし、指名手配犯ですものねぇ」
ユリエッティは元公爵令嬢なのだから当然、王女たるネルヴォラニアとも面識があり。また、ヴィヴィアとの関係も知られているのだから、こんなやりとりの一つもできる。もっともネルヴォラニアのほうは流石に、笑みを浮かべて、というほどの余裕はないようだったが。
凛として見目麗しく、婿として迎えた有力貴族長子との夫婦仲も良好。内政に注力し、公務・視察等で国内を巡ることも多く、そのぶん現王族の中でも国民からはより身近に思われている第一王女。ヴィヴィアはそんな、王室の中では内政担当と言っても差し支えない姉が、キシュルの手に落ちている可能性は低いと考えていた。夜襲の際に、キシュル自身が第一王子と国王にのみ言及していたことも合わさって。
無論、それでも国王同様になにかしらキシュルの影響下にある可能性もあったが……やはりあれはある種の幸運だったというべきか。“北端山脈”麓の果樹園と精力剤の秘密を知った時点で、ヴィヴィアは姉を味方に引き入れられると確信しており──そしてそれは、間違いではなかった。
「ヴィヴィアへの狼藉、その後の追跡と襲撃、そして精力剤について。少なくともそれらに関しては、純然たる事実として元首キシュルを糾弾できます。兄や父がどれほど彼奴の影響を受けているかは不明ですが……百年に渡って国民を害していたと知れば、流石に言いなりではいられないでしょう」
毅然と述べるネルヴォラニアの瞳には、キシュルへの並々ならぬ怒りが滾っている。
彼女はヒルマニアの内政に、特に出生率低下問題に身を入れて取り組んでいた。そして同時、自らも夫との子供を授からないことを悩んでいた。自身らも精力剤を使っていた。国民にも変わらずあの薬が行き渡るように、少しでも子を成す可能性が高まるようにとできる限りの手を回していた。それが全て裏目に出ていたなどと、まずもって容認できることではない。
「……思えば妙な点もありました。今年の慰問、追悼式典は例年よりも長い日程が組まれ、道中に他の視察も入れ込まれていた。そしてそれらは全て、父上の指示によるもの……」
ネルヴォラニアが今回の慰問のため王都を発ったのは、世間的にはヴィヴィアが王城へ戻ったとされる時期の少し前のことだった。その時のネルヴォラニアは妹と入れ違いになることを少しばかり残念に思っていたが、事情を知って振り返ってみれば、ヴィヴィアがいないことを悟らせないためとも捉えられる。
「薬の原料についても把握しているつもりでしたが……ああもう、本当に自分の愚昧さが恨めしいわ」
「わたくしたちの生まれるずっと前から、あるのが当たり前な代物ですもの。巷では“アレのお陰でこの程度の少子化で済んでいる”というような言説さえ流れていたと記憶していますわ」
「ええ、それにあの“果実”はヨルド国内ですら実物も情報も流通していませんでした。お姉様が気に病むことではありません」
ネルヴォラニアは口調も崩れ、よくよく見れば膝の上の両手は白むほどに握りしめられている。その憤りを共有しつつも、ユリエッティもヴィヴィアも、憎むべきは一人と見据えていた。
「……ともかく、事態は把握しました。わたしの成すべきことも。このわたしネルヴォラニアは、妹ヴィヴィアラエラへ全面的に協力すると約束しましょう」
「っ、ありがとうございます、お姉様」
「感謝いたしますわ、殿下」
三者今一度顔を見合わせ、力強く頷く。
かくしてヴィヴィアの立案──ネルヴォラニアの王都王城への帰路に密かに同行するという策は、無事に決行される運びとなった。
◆ ◆ ◆
なおその日の夜は気の利かせたクレーナのお陰で、もう本当に随分と久しぶりに、ユリエッティはベッドでコトに及ぶ用意があり。なんなら夜襲以降は警戒のため情交そのものを控えていたものだから、まさしくそれはつかの間の、英気を養う一夜の楽しみになる。
しかしユリエッティは複数人を同時に抱くようなことはしない性分のため、はてでは誰がその寵愛を受けるかとなれば……まず、再会以降まだ一度も抱かれていないファルフェルナが“ここまできたらいっそ限界まで焦らされたい”というネビリュラもドン引きの言い分で辞退し。そのネビリュラもクレーナや使用人たちに勘付かれては面倒だと澄まし顔で(実は少し残念に思いながら)辞し。流れでムーナも“部屋を隣にしてくれるなら”という理由で譲り。
「──ふふ。久しく感じていなかった温もり、ですわねぇ」
「なんだかやっぱり、皆さんに悪い気もしてしまいっ、ん、ぁっ……」
「こぉら、今はわたくし以外のことを考えてはいけませんわ」
「んむっ……ふっ、あぁっ──」
結局その夜は、ヴィヴィアが褥を共にすることとなった。




