第78話 山麓にて
「……なあ」
「……ええ」
乱雑に並ぶ針葉樹、その影に隠れるようにしながら、ユリエッティらは足を止めていた。
ファルフェルナだけは市販の、他の面々はネビリュラ作の毛皮の外套を纏っている。急ごしらえで作られたため仕上がりはいつも以上にワイルドで、傍目にはそれこそ獣の一家が木陰に潜んでいるようにすら見える、そんな一行の姿。その中でも猫耳があるぶんなおさら獣感の強いムーナが、眼前の光景に首をひねっていた。
「ここって確か、魔境だとか魔峰だとか呼ばれてたよな?」
「ええ、ええ。そのはずですわ」
「じゃあなんこれ?」
「……………………果樹園、でしょうか」
ヴィヴィアが絞り出した言葉の通り。
数日をかけて“北端山脈”麓の樹林を抜けたまさにその瞬間、ユリエッティらの目の前に現れたのは、よく熟れた実のなる樹木が並んだ、広大な果樹園だった。それも、見渡す限りに広がるほどの規模。ここまでの自然な植生とは明らかに違う、定規で引いたように整然と並べられた人工の緑地。斜面に合わせた緩やかな段々畑すら形成されている。その遥か向こう側、薄靄の中に高き山嶺たちの影が揺蕩っていた。
「……しかも、見覚えのある果実」
果樹園外縁、ぷつりと途切れる針葉樹林の中から、一行は木になった実を注視する。それは名も知らぬ、けれども何度も見たことのある、特にネビリュラにとっては嫌な思い出もある代物。紛れもなく、ヨルドの危険区域、そのそこかしこに存在した発情作用をもたらすあの“果実”であった。
「ほう、私は初めて見ますが。ヒルマニアには無い種ですかね?」
危険区域のものとの明確な違いと言えば、見目にも分かるその大きさ。果樹一つ一つになる実の数も多い。土地を最大活用する段々畑の形状といい、相当な規模で管理・栽培されているのは間違いなかった。山脈と樹林に隠された、人目の届かないこの場所で、まるで隠匿するかのように。
「……ヴィヴィア、ヨルドにしろヒルマニアにしろ、“北端山脈”内で農業を営んでいるなどという話はありませんでしたわよね?」
「ええ。ましてこれほどの規模で、だなんて……」
“北端山脈”の恐ろしさは、この大陸の住人であれば誰もが音に聞くところである。ここはまだ山脈の麓辺り、標高も低く気候もまだ厳しくはないがしかし、そうは言ってもその辺の山岳とはワケが違う。中腹に生息するモンスターが降りてくる可能性だって大いにある。そんな場所で、平地ですらそう見かけないほどの大規模農作を。それもあの、市場への流通など見たこともない“果実”を。
突然に現れた不可解な光景に、ユリエッティらは先程からずっと首を傾げている。いまひとつピンときていない様子なのは、危険区域を知らないファルフェルナ一人だけ。
「……? うーむ……」
と、そのファルフェルナが不意に、すんと鼻を鳴らした。ユリエッティらの知る限り、“果実”は無臭とまでは言わずとも、逆にこれといった特徴的な香りも持たない。だというのに、“果実”を知らないと口にしたファルフェルナが、まるでその香りを確かめるかのように嗅いでいる。
ますます野生動物めいて見えるその行動。誰かが何かを言う前に、ファルフェルナはそのまま茂みを飛び出し、もっとも近い木から“果実”を一つもいで戻ってきた。それなりの距離があったはずなのだがしかし、その間わずか十秒足らず。無論、音もなく。
「え、果物泥棒?」
その手際の良さにムーナが思わず言い……終わるか終わらないかのうちに、ファルフェルナは“果実”を一口、何の躊躇いもなく囓った。咀嚼は一度だけ、そしてすぐにぺっと吐き出す。
「えぇ……」
あまりの無法ぶりに、“果実”の被害者であるネビリュラすら引き気味な声を漏らす。ヴィヴィアやユリエッティですらも浮かべるのは苦笑。口に出して窘めなかったのは、大なり小なりファルフェルナの性格を知っているからであり。また、不可解……どころか何やら胡散臭さすら漂う眼前の果樹園が、どうにも真っ当なものとは思えなかったからでもあり。
そして当のファルフェルナはといえば、そんな周囲の反応など意にも介さず、得心がいったとばかりに頷いていた。
「これ多分、精力剤の原料ですね。かなり薄めて使ってはいそうですが」
「「え?」」
「んー?」
「……?」
ユリエッティとヴィヴィアは揃って驚きの声をあげ、ムーナとネビリュラはやはり首を傾げるのみ。
「……って、ムーナは知っているでしょうに」
「そりゃまあ聞いたことはあるけどさ。飲んだことはないし。興味もなかったし」
精力剤といえば何を指すのかくらい、ヒルマニアの民であれば誰もが知っている。出生率低下の顕在化に合わせ、遡ればその原型はもう百年近くも前から出回り始めていた、その名の通りの飲み薬。最終的な流通はいくつもの大手商会が連盟でこなしつつ、そこに至るまでの種々の過程には王国政府の介添えもある、半ば国家公認の少子化対策の一環ともいえる代物。
一応公的には“活力剤”という名称になってはいるが誰もそう呼んではいない薬の一部原料がヨルドからの輸入品であるということは、ユリエッティもヴィヴィアも知るところではあったが。なるほど言われてみれば、発情作用・興奮作用という点では合致する。
「……そういえば師匠、昔に飲んでいましたわね」
「ええはい、一度だけですが」
かつて、幼きがゆえに加減を知らなかったユリエッティの情交に抗するため、精力剤を口にしたことがある。結局、飲もうが飲むまいが最後には白目をむいて痙攣失神することには変わりなく、またどうも体に合わない気もしたため常飲には至らなかったが……と、微笑ましい思い出か何かのように語るファルフェルナ。結局まだ聞き出せていない幼女ユリエッティの暴挙が気になるような恐ろしいような、ゾクリと背筋を波打たせるネビリュラ。さて突っ込むべきかどうかと、ムーナは変に真面目に思案していた。
「……いやてか、一口囓っただけで分かるのもそれはそれでなに?」
「まあ、師匠ですから」
「ふっふ」
弟子に褒められ張った胸が、ゆさりと一度揺れる。
「…………しかし成程、わたしも原料の全てを把握しているわけではありませんでしたが、まさかこんな場所で……」
ヨルドで“果実”が流通していなかったのは、そもそも需要がなかったからか。一方でヒルマニアにとっては重要な物品であるために、盗難や損失が無いよう、こんなところで隠すように栽培しているのか。あるいはこの辺りの土壌や気候こそが栽培に適しているのか。樹も実も大きく育っているのだから、その線もありそうだ。一晩ぶん──つまめるほどの小瓶一つから非常に安価で出回っているのは、この広大な土地での大規模管理がゆえか。
あれこれと考えを巡らせるヴィヴィアの表情は、納得はできるような、けれどもやはりなにか違和感があるような複雑なそれ。すぐに気付いたユリエッティが、その頬をそっと撫でた。
「わたくしもなんだか引っかかるところはありますが……正直、今は気にしても仕方がないですわ」
「……ええ、そうですね」
囁かれ、ふいと我に返る。目の前の光景は不可思議ではあれども、自分がいま成すべきことには関係がない。どうしても気になるようであれば、全てが終わってから好きなだけ調べればいい。自らにそう言い聞かせ、ヴィヴィアは一つ頷く。頷きがてら、ユリエッティの手に少しだけ甘える。
「すみません。さあ、先に進みましょう」
「っても人に見られるのは避けたいし、やっぱ迂回か?」
「まあ、そうなるでしょうね。目撃者を小突いていいのなら、正面突破でも構いませんが」
「怖ぇんだよアンタ。人格者って話ぜったい嘘だろ」
「自分でそう名乗ったことは一度もないんですよねぇ」
「師匠はアレですわ、“でもこいつ私より弱いんだよな”とか“いざとなれば殴って解決すれば良いか”とか考えてるせいで、傍目にはおおらかなように見えているだけですわ」
「…………ワタシのことを全然気にしてないのも、そういうこと?」
「ふっふ」
「……………………怖い」
少しずつ砕けてきたやりとりを挟みつつ、右に左にと首を巡らせ。それでも視界の限りに続く果樹園は、誰が何度見ても広大だった。




