第77話 師弟
“北端山脈”とはその名の通り、大陸の北端に聳え南北に伸びる大山脈を指す。中腹辺りからは大型のモンスターも多数生息し、高標高地に至ってはそもそも生物の生存が不可能とすら言われる、常冬の山々。当然ながら、国境の関門などは精々が麓に一つある程度。
魔境の中の魔境ではあるがしかし、東から西へ横切るのであれば物理的な距離はさして長くもない。一行にファルフェルナが加われば道中のモンスターは退けられるはずで、また、今はまだ夏を抜けきってはいない時節ゆえに、常冬といっても寒さは和らいでいる。ネビリュラが急ピッチで拵えた防寒具一式の力を借りつつ、ルートを上手く選べばそう時間をかけずに横断できる……というのが一行の算段であった。
「──ではここらで、私と我が弟子の馴れ初めの話でも一つ」
目的と行先の共有が済めば、足を進める最中での話題はそういうものになり。飄々とした、あるいはどこかお気楽なファルフェルナの声が、大きくも小さくもなく木々の合間を漂う。
ヴィヴィアを中心に、ユリエッティが先頭、ムーナが後方で警戒、ネビリュラはヴィヴィアと横軸を合わせて、という平時のフォーメーション。これにファルフェルナがネビリュラの反対隣を埋める形で加わった、昼間でも物寂しい針葉樹の森を進む中での一幕。チェリオレーラも、姿は見えずともユリエッティの近くをふわふわ漂っているようだった。
「かれこれもう十年以上も前ですかね。王都……宮廷にお呼ばれする機会がありまして」
ファルフェルナはその時点ですでに最高位のA級冒険者、実力としてはその中でも群を抜く才媛であった。突如として現れ、独自の流派を立ち上げた謎多き拳術使い。老成したドラゴンすら単騎で屠る美女。王侯貴族も興味を示し、何やらの褒賞にかこつけて呼び寄せるのも当然のこと。
「それでー……そう、貴族の令息令嬢方々に軽く手ほどきを、みたいな話に」
「懐かしいですわねぇ。わたくしもまだこーんなちっちゃかった頃ですわ」
視線は前を向いたまま、明らかに適当に腰の辺りで手を揺らすユリエッティ。
10歳かそこらの頃合いに出会った、という程度の話はムーナやネビリュラも知るところであり、逆に言うとそれ以外の事前情報がほとんどない。師弟という関係や同類めいた所作からして、警戒する相手ではないと二人とも分かってはいるのだが……見え隠れする闘気に、本能が反応してしまうようで。
特にネビリュラなどは、自分というモンスターにしか見えない存在がコミュニケーションを取り、火を囲んで共に飯を食い、服飾までこなすと知ってもなお一切の驚きを示さないファルフェルナに、逆にビビってすらいる様子。心なしか、ヴィヴィアを挟んで身を縮こまらせているようにも見えた。
漏れ出るプレッシャーを感じ取れる域にないヴィヴィアからすれば、単にネビリュラが不審な(そしてちょっと可愛らしい)挙動をしているだけであったが。
「まあ結局、誰も彼も傲握流の基本が手に馴染まず、長くは続かなかったのですが。そんな中でこれはと見込んだのがユリエッティ、我が弟子だったわけです」
今現在においてもファルフェルナが弟子と公認している者はユリエッティ一人であり、その上で師弟両者とも、それを大っぴらに吹聴しているわけでもない。だものでファルフェルナの実績に反して、傲握流拳術はその名も実態も知る者の少ない流派となっていた。
「魔力を魔法に変換せずに、体内でそのまま用いる……というのは、魔法を扱える人ほどピンとこないですものねぇ」
「特に貴族社会では、幼少期のうちに魔法の基礎を習得するのが嗜みとされていますから。なおのこと馴染みづらいのかもしれません」
「しかしそう仰るヴィヴィアラエラ様も、どうやら傲握流を知っているご様子。我が弟子の手ほどきですか?」
「ええ、ほんの護身術程度ですが」
体の状態か身のこなしか、ヴィヴィアが自身の流派を囓っていることも、ファルフェルナは当然見抜いている様子。そのやりとりを後ろから眺めていたムーナが、おやと首を傾げた。
「あ、王女様に教えたのはアンタじゃないんだ」
「ええ、ヴィヴィアラエラ様とは数度顔を合わせた程度で。というか流石に、王女に拳闘術を教え込むだなんてできませんよ」
「だってよ、王女様に拳闘術教え込んだ女」
「護身のためですわ」
「ふふ、実際この上なく役に立ちましたから」
ヴィヴィアが逃亡に際してキシュルの顔面に一発くれてやったという話は、実際に皆があの男を目の当たりにした今となってはなおのこと、よくやったと快哉を叫ぶところであり。自衛の心構えとその術を伝えていたユリエッティは、前を歩きながら誇らしげに胸を張っていた。
ともかくユリエッティが、その手ほどきを受けたヴィヴィアが、ある種の素養を持っていた可能性は高い。弟子が15歳になるまでの五年間、王都に留まり鍛え続けた甲斐があったと、ファルフェルナもユリエッティに負けず劣らず胸を張る。伸びた背を見比べるムーナが、ああなるほど師弟っぽいわと思うほどに。
「……いやてか、五年でこのレベルに仕上がるのはヤバくない?」
「師の教えが良かったのですわ〜」
「弟子の覚えが良かったもので」
「まーーーーーーーあてゃですから。てゃですからね」
「お、今のが精霊とやらの声ですか」
「ぴぃいっこの人にも聞こえてる……」
また迂闊な独り言を拾われたチェリオレーラを、ヴィヴィアがくすりと笑う。魔境へ向かっているとは思えない空気。ファルフェルナの纏う雰囲気も、心なしかより柔らかいものになっている気がする。静かに会話を聞いていたネビリュラが、警戒を緩めても良いかと考えるくらいには。だものでもちゃりと口を開く。
「……弟子を溺愛してるのは、分かった」
「分かっていただけましたか」
「むしろどうして王都を、ユリエッティのもとを離れたの」
弟子の窮地に何をおいても駆けつけるほどだというのに、と、そんな純粋な疑問から問うた。問うてしまった。返事は寸暇もなく。
「お預けプレイのためです」
「……は?」
「お預けプレイのためです」
「……そう」
何を言っているのか分からないはずなのに、言いたいことがなんとなく分かってしまう。そんな感覚に、ネビリュラはそれ以上の言葉を続けられなかった。ファルフェルナの、瞳の窺えない澄まし顔は全く崩れていない。代わって前方から声が飛ぶ。珍しく、少しばかりバツの悪そうな声が。
「……当時のわたくしは加減というものを知らず……ついヤりすぎてしまったのですわ。結果、その……師匠の趣味嗜好が大変なことになってしまいまして……」
ユリエッティが情事に関して反省の色を見せることなど、はたしてあっただろうか。すっかりあけっぴろげになりつつあるムーナとネビリュラですら、即座の追求がはばかられてしまう。恐ろしいことをのたまうその詳細が、気にならないと言えば嘘になってしまうのだが。




