第73話 追っ手
“入らずの山岳”を出立してからも、ユリエッティらの足取りは順調そのものだった。
お尋ね者だとバレかけたのは一度だけ。それも旅人に怪しまれた程度で、冒険者なり賞金稼ぎなりキシュルの手の者なりに追われて逃げる、などということは一度としてなく。ひたすらに人里を避け、人目を避け、ふた月と少しの時間をかけて、ついに一行は国境線の付近にまで到達した。
“入らずの山岳”以降も二度危険区域に足を踏み入れ、そしてまさにその場所“深緑渓谷”で身を潜める、今日が最後の夜。ここを越えればいよいよヒルマニアも近く、あとは関所なき国境の一つである“不越大密林”へと向かうだけ。明確に旅の終わりが見えてきて、しかしだからといって気を抜いているわけではないと、皆がそんなつもりだった。
「──ユリ」
あるいは幸運だったのは、今夜は偶然にも誰も情事に耽らず、ユリエッティ、ムーナ、ヴィヴィアの三人が第二テントで共に寝ていたという点だろうか。異変に──自分たちを取り囲むように展開された人の気配に、ムーナがいち早く目を覚ました。小さな声で、隣に眠るユリエッティを起こす。
「……ムーナ?」
「囲まれてる、そこそこの数」
「……成程。ついに、ですか」
途端に目を覚ましたユリエッティが、音もなく起きあがった。自身も神経を研ぎ澄ませてその気配、明らかに追っ手であろう者たちを探ろうとする。同じように上体を起こしながら、ムーナは静かに言葉を続けた。
「一人、なんかヤバそうな気配のやつがいる」
ドラゴンや何かのようにやたらめったら魔力を振りまいているわけではないが……しかしなんというべきかこう、非常に密度の高い、異様な存在感の者が一人。そいつほどではないが、別の強者の気配も一つ。二対の耳を持つムーナだからこそ気付けた難敵に、ユリエッティはさらに表情を引き締め……そしてそっと、ムーナとは反対隣に眠るヴィヴィアの肩を揺すった。
「……ん、エティ……? どうかしましたか……?」
「ヴィヴィア、声は潜めたままで。追っ手が来ましたわ」
「……っ」
ヴィヴィアが二人ほどでなくとも素早く静かに状況を把握できたのは、首都での逃亡期間と、それから、皆でしっかりと夜襲のシミュレーションをしていたからだろう。寝るときにだって──それこそ交わりを楽しむときにすら──、即座に動ける備えはしてある。三人とも寝間着は動きやすいシャツとズボン。枕元には、必要最低限の荷を纏めた小さなザック。
灯りもつけず、極力音を立てないように各々がそれを手に取りながら、同時にユリエッティは遠話器を装着した。呼びかける先はすぐ隣、第一テントで眠るネビリュラ。枕元に置きすぐに応答できるようにと取り決めていた通りに──実際のところネビリュラは、寝る時も肌身離さず耳に埋め込んでいたのだが──、即座に目を覚ましたネビリュラと繋がる。
〈……こんな時間に、ってことは〉
「ええ、囲まれていますわ」
「賞金狙いの冒険者〜……って感じじゃない。まあ王女様狙いだろうな」
ネビリュラにも聞こえるよう、ユリエッティの耳元でムーナが囁く。やはり理解が早く、ネビリュラもすぐに身を起こした気配が遠話器越しに伝わってきた。
「十五……二十はいないだろうけど。ヤバそうなのが一人、強そうなのが一人。まだ少し距離はある」
暗闇の中にムーナの四つ耳が揺れる。ヴィヴィアの顔が僅かに強張り、しかし同時に、体をほぐすように拳を開いては閉じる。ムーナがことに気付いてからまだ数分と経っていないが、すでに全員が動ける状況。
「てゃ、何か古い存在がいます。勿論精霊には遠く及びませんけど……とにかく、長く生きる者特有の気配が」
タイミング良く精霊の声も聞こえ、ユリエッティの気もますます引き締まる。チェリオレーラのほうから声をかけてきた。ただの長命種ではない何者かがいる。
(確か、元首キシュルは非常に長く生きるエルフと魔人のハーフとのことでしたが……)
まさか国家元首たる当人が出向くこともあるまいと思いつつ、けれども妙な直感めいて頭を過るその考え。小さく頭を振って振り払い、ユリエッティは素早く判断を下した。
「ここは逃げたほうが良さそうですわね。ムーナ、手薄なのは……」
「ちょうどアタシらの背中側だな。たぶん一番マシ」
「了解ですわ。ネビリュラ」
〈聞こえてる。タイミングはそっちに任せる〉
「ええ」
手短に方針を定め、そして一度言葉を切ってヴィヴィアを見やるユリエッティ。
「……ヴィヴィア」
「ええ。行きましょう、エティ」
夜闇に慣れた視界の先で頷く姿が見えた。表情の強張りは先よりも薄れている。安心させるように小さく微笑みながら、ユリエッティもまた頷き返す。一拍ののち、ムーナが剣に手をかけた。
「王女様の許可も降りたことだし、ちゃちゃっと動きますかねぇ」
「お願いしますわ」
包囲の狭まりをもっとも鋭敏に感じ取れるムーナ、その彼女がタイミングを見計らい……そしてテントの一面、出入り口のないほうを盛大に切り裂く。第二テントはユリエッティらが以前に購入した、冒険者向けのそれなりに頑丈な代物ではあったが……振り抜きと同時に自身と武器の両方にエンチャントをかけたムーナの一太刀を受けて、何の抵抗もなく出口が一つ増やされた。
「ネビリュラッ!!」
外へ飛び出しながらムーナが叫べば、隣の第一テントが一人でに崩れ──骨とピンを通していた部分だけが切り離されて、ネビリュラの旅装へと変わっていく。これもまたヴィヴィアのネグリジェの、護身機構の切り離し部分の仕組みを元に、ネビリュラが旅路の中で施した改良。それが遺憾なく発揮され、ローブを纏った前傾の影が遅れなくムーナのあとに続く。体はすでに普段よりひと回りほど縮小され、脚部も流体化した逃走に適する形態へ。
「乗って」
「失礼します……っ!」
そんなネビリュラの背中へと、続けてテントを出たヴィヴィアが飛び乗る。なるたけ人を背負いたくはないのがネビリュラの本音ではあるのだが、まあ緊急時であれば致し方ない……そう不満を飲み込める程度には、両者の距離も縮まっている。そんなネビリュラとヴィヴィアの背を追うようにして最後の一人、ユリエッティもテントから脱出した。
「ひとまず撒ければそれで良いですわ!!」
「あいよぉ!!」
最後尾から先頭へと声が飛ぶ。体力があるとはいえどやはり短距離逃走では俊足とは言い難い、そんな王女様をネビリュラが背負い、ムーナが道を拓き、魔法を打ち砕けるユリエッティが殿を務める。事前に取り決めていた緊急時のフォーメーションを遵守しつつ、四人(とチェリオレーラ)は迷うことなく鬱蒼とした谷底を駆けていく。
「逃がさ──ごへぇっ!?」
「クソ、速ぁがぁっ!?」
前方の木陰から飛び出した追手のうちの数名(エルフや魔人のように見えた)をムーナが剣と魔法で蹴散らし、ネビリュラがすぐ後を駆け抜けつつ一人はね飛ばし、ユリエッティがすれ違いざまに二人ほど意識を刈り取った。
二重円状に組まれていた敵の陣形に穴が空く。そうすれば当然、怒号と足音が左右後方から聞こえてくる。それでも包囲は抜けられたのだから、あとは遠距離攻撃に注意しながら逃げ切るだけ。木々の合間を縫い、背の高い茂みを飛び越えながらそう判断する一行の希望を、まるで打ち砕くように。
「くそっまた空間跳躍かよぉ……っ!」
吐き捨てながら足を止めたムーナの前方に、二つの人影が姿を現す。こんな林中に印となるようなものは何もないはず。つまりいつぞやのテトラディが使っていたような、短距離であれば位置を問わず跳べるタイプか。力量を図るムーナの、金色の瞳に映ったうちの一つは、以前に首都で遭遇した屈強なエルフの男だった。追っ手たちの部隊長と見られるそいつは、以前と同じような無地のローブと、修復したのだろう先の膨れた長杖を持って佇んでいる。
「左のやつは知ってるっ、右のは……なんか見たことあるなオマエ?」
「っ、まさか、なぜここに……!」
今にも噛みつきそうなムーナと、ひどく慄いた様子のヴィヴィア。前者を完全に無視し後者に笑いかける二人目の男は、彫刻めいた美貌と長い金髪を手に持った灯りで照らしていた。
「──こんばんは、ヴィヴィア様。どうにも動きが早いと思えば、そんなペットを飼っていらしたとは」




