第72話 僥倖
ユリエッティ一行が“入らずの山岳”での小休止を終え、移動を再開した頃合い。
ヨルド首都は官邸の一室に元首ネルチャグシュッツ・キシュルはいた。
「──全く、どこへ身を潜めていたのかと思えば」
部屋の中央のテーブルには大きなヨルドの地図が広げられている。世間一般に出回っているものよりもさらに精密なそれを見下ろすのは、キシュルとバルエット卿、そしてライム色の髪を短く刈り上げたエルフの男の三人だけ。他には誰もいない室内で、キシュルは上機嫌に何度も頷いている。手には透明な密閉袋。その中では小さく短い毛束が──黒と白の入り混じる、ヴィヴィアの髪がきらめいていた。
「髪を切り整えた、ということでしょうか……」
この髪の毛が発見されたのはつい先日、廃棄区画──市井では危険区域と呼ばれている場所でだった。廃棄区画はその名の通り、キシュル自身がもはや不要と断じた“失敗”の痕跡。極稀に、調査団とは名ばかりのキシュルの手の者が踏み入って記録を付ける程度の、半ば捨て置かれた土地。
だから、首都からほど近い“禁止山林”内でヴィヴィアの毛髪が発見されたのは、キシュルにとって僥倖以外の何者でもなかった。今はもう“禁止山林”を去ったようではあるが……しかし、これまでのあまりの目撃情報のなさと合わせて考えれば、おのずと彼女らの行動方針も浮かび上がってくる。すなわち、人の寄らない自然地帯を隠れ進んでいるのだと。恐らく、廃棄区画を積極的に利用しながら。
「ユリエッティめ、無茶なことをする……」
シマスーノ家長子であるバルエット卿が、地図を睨みながらそう吐き捨てた。整った精悍な顔立ちや黒髪などはユリエッティとの血の繋がりを感じさせるが、しかしその目付きは淀み、荒んでいる。かつて妹だった女の行動がヴィヴィア──キシュルのお気に入りにどんな危険を及ぼすのかと、そう考えれば心中穏やかではいられない様子。しかし当のキシュルはやはり上機嫌に、むしろ安心したような表情すら浮かべていた。
「良い。手がかりが掴めたのだ。ヴィヴィア様も、そう悪い日々は送っていないだろう」
廃棄区画、禁止区域とは言ったとて、実力のある者であれば危険を退けるのは難しくない。そしてそのどこもが水資源に富んだ肥沃な土地。そういう場所をキシュルが選んだのだ。サバイバル能力のある護衛を伴えば、一人でその辺を逃げ回るよりよほど安全に過ごせるだろう。
「……あの女冒険者二人はドラゴンを討伐せしめたという話。そこらの廃棄区画なら問題ないでしょう」
もう一人のエルフの男が、静かにキシュルの言葉を補足する。そのドラゴン『風倪竜』討伐の前には、別のドラゴンの追跡がてら“途絶えの森”に滞在していたという記録もあった。それもあって廃棄区画内に身を潜めることを思いついた可能性も高い。
エルフの男はヨルド首都内で一度、ユリエッティ、ムーナとやり合っている。その所感もあっての物言いとなれば、バルエットも頷くほかなかった。ユリエッティが気に入らない、という意思に変わりはなかったが。
「強いて懸念点をあげるなら……“実”を常食していないか、というところですが」
「今さら多少蓄積したところで誤差の範囲だ。そも、聡明なるヴィヴィア様であれば見知らぬ果実になど手を出さないか、一度口にしてすぐにおかしいと気付くだろう」
言いながらもキシュルは、ヴィヴィアの毛髪を明かりに掲げうっとりと見つめている。
側近のエルフの男ともやり合える冒険者が二人も付いているという時点で、最初からヴィヴィアの身の安全そのものについてはさほど心配していなかった。うち一人はかつてヴィヴィアと懇意にしていたという女、まかり間違っても手荒に扱うことはないだろうと。とにかく行方を眩ませているという点が問題であり、そしてその解決の糸口は見えた。
「──廃棄区画を中心に痕跡を探せ。どのルートを通りどこへ向かおうとしているのか、それを確定させる」
「はっ」
身内に、ヒルマニア王室に助けを求めるべくヴィヴィアが国境越えを考える可能性には、キシュルもとっくに至っている。護衛二人とヨルド国内に留まっているだけでは、いずれ限界が来るのは明白なのだから。
地図を見やり、“禁止山林”から国境方面への道筋を予測する。足を踏み入れる可能性のある廃棄区画を、順にピックアップしていく。そうしながらキシュルは、視線を向けもせずにバルエットへ言葉を投げかけた。
「ヴェルハドゼールに伝えておけ。ヴィヴィア様の足跡を発見したとな」
第一王子ヴェルハドゼールは、つい先日ヨルド首都を発ち帰路についていた。表向き、今回のヒルマニア王族ヨルド訪問はこれで終了、初来訪で元首キシュルとの仲を深めたヴィヴィアラエラ王女も名残惜しみつつ首都を離れた、ということになっている。また同時に、こんなタイミングで政府要人の娘を誘拐した二人の女冒険者がいかに悪逆非道な輩であるか……などという話も、ヨルド国内で大いに広められていることだろう。
「それから、アーヴァルカイドにもな」
ヴィヴィアのいない……つまりキシュルにとっては丁重に扱う理由もないヴェルハドゼールの帰り道は、行きよりも随分と長いものになる。だから別途、王室に直接伝えておけと、そういう意図でもってアーヴァルカイド──ヴェルハドゼールとヴィヴィアの父、現ヒルマニア国王の名をまったく無造作に呼び捨てるキシュル。
「……はっ、閣下」
それに異を唱えるでもなくバルエットは一礼し、足早に部屋をあとにした。たかだか隣国の次期公爵程度には目もくれず、キシュルは熱心に地図を眺めたまま。
「ナルグ」
「はい」
「発見次第、迎えにはわたしが直接出向く。“元首キシュル”の替え玉の用意をしておけ」
「かしこまりました」
「ああ、ヴィヴィア様……やはり貴方は逞しく聡明だ……髪を黒く染めてしまったことは、少しばかりお仕置きが必要ですが」
いち国家元首の、完全な私情による職務の放棄。それに異を唱えるでもなく、ナルグとよばれた側近のエルフの男は無表情のままただ頷くのみだった。




