第64話 準備期間
“禁止山林”に戻ってから少し。
心身を休めるヴィヴィアの体力は順調に回復しつつあった。森の中での生活は王族としての日々とはかけ離れているが、しかし独り逃げ隠れていた時のような底知れぬ不安はない。地図を睨んでルートの選定も進めつつの、思いのほか穏やかな日々。
そんなある昼下がり、ヴィヴィアはユリエッティに髪を切ってもらっていた。
「──色も抜けてきていますわねぇ」
「まあ、雑な染め方でしたから」
逃亡中に自分で切った乱雑な毛先を、ユリエッティがハサミで丁寧に整えていく。二人の言葉通り、安い染料で付けた黒色はところどころが薄れつつあり、また、逃走中に伸びた分、頭頂部もきらめく白色が見え始めていた。
まばらな色合いになってしまってはいるが、改めて染め直す意味も薄いということで伸びるに任せ。せめてもと毛先だけでも整えようと言い出したのはユリエッティのほうであった。
「少しだけ傷んでしまっていますが……もう大丈夫。こんな生活でも気を使えば案外、綺麗に保てるものですわよ」
ほとんど木箱のような椅子に座り、何の皮を使っているのかも分からない汚れ作業用のケープを纏って、されるがままなヴィヴィア。ちょきちょきと軽やかな音が耳朶をくすぐる。きっとこうして普段、ムーナの髪も切っているのだろうと察せられるような、慣れた手つき。
三年ぶりに見たユリエッティの髪からは、ヴィヴィアの記憶にあったほどの艶は失われていた。高位貴族から冒険者へと転身したのだから、それは当然の話。けれども本人の言葉通り、決してぼろぼろに傷んでしまっているわけでもなく。黒一色のポニーテールは変わらず、その質感は、随分と精悍になった顔つきによく似合う薄艶に。
「エティはすっかり、逞しくなりましたね」
山林での生活を見ているだけで分かる。野営に際する諸々を毎日、手慣れた様子でこなし。他より凶暴らしいモンスターを難なく狩っては引きずって返ってくる。その後の、ヴィヴィアには少々刺激の強い解体作業もまったく淀みなく。
体のラインや体捌きも、公爵令嬢であった時分よりもさらに実戦的でしなやかなそれに。あるいはこうして今ハサミを操る手つきすらも、あの頃にはなかったもの。ユリエッティの指先が髪に肌に触れるたび、記憶の中の指先と同じところと変わったところ、そのどちらもが感じられて。ヴィヴィアの肌が心地よく痺れる。
「ふふ、これでも準A級の冒険者ですもの。今はお尋ね者ですが」
ヨルド政府要人の娘を連れ去り首都から逃げ出した指名手配犯。今のユリエッティとムーナは市井でそのように扱われていた。好き勝手言うものだと呆れつつ、当の二人はなってしまったものは仕方がないとばかりに、あっけらかんとしている。その逞しさが、今のヴィヴィアにはありがたかった。
「重ね重ね、必ず名誉の回復と返礼はいたしますので」
「ふふ、ムーナのモチベーションも上がりますわ」
厄介事を持ち込んでしまったというのに、ムーナはヴィヴィアに文句を垂れるでもなく、割合フランクに接してくれている。最初こそ王女という立場に慄いている様子ではあったが……今では徐々に慣れつつあるようで。どちらもユリエッティの恋人という共通点があるのも大きいだろうか。まだその辺りは探り探りな段階ではあるものの、ムーナもヴィヴィアもお互いを、こう、同士のような存在と認識しつつあった。それはムーナが、獣人の特徴を持ったエルフとヒトのハーフという特異な存在であっても何ら関係なく。
「……ネビリュラさんとも、もう少し打ち解けられたらと思うのですが」
特異というならそれこそネビリュラ。ドラゴンのようなスライムのような、しかし本人曰くどちらでもないらしい存在は、自分とのあいだに少し壁を作っているようだと、ヴィヴィアには感じられていた。
「そうですわねぇ」
何やら話し合いが行われ、ネビリュラも今後の旅程に同行することになった……というのは分かるのだが。その内容はネビリュラとユリエッティ二人だけの秘め事のようで、具体的にどんなやりとりがあったのかは、ヴィヴィアにはとんと想像がつかない。
「悪い方ではない、というのは伝わってくるのですが……」
「ええ」
まあとにかく、ネビリュラからヴィヴィアへの態度はどこかそっけなく、現状、二人の会話はそう多くはなかった。生活するうえでの最低限のやりとり、といったところ。それでも──ヴィヴィアの気のせいでなければ──言動の端々に、ヴィヴィアの苦難を労るような気配が見て取れる……ような気もしている。
とはいえ今のところ、会話の大半が「あ、えっと」「ありがとう、ございます」「そう」「べつに」「かまわない」で構成されてしまっているわけなのだが。ヴィヴィア自身がまだネビリュラの、荒事に縁遠い者であれば十分に威圧的に思える外見に慣れていないのも事実。二人のやりとりはいまだ、ぎこちない。
「そういえば、わたくしも最初のうちは邪険に扱われていましたわねぇ……きっとその内に慣れていきますわ、お互いに」
「そうだと、嬉しいですね」
「ええ、ええ」
わたくしも二人が仲良くなってくれると嬉しいですわ、などとどこか無邪気に言うユリエッティ。こういうところ──周りの者たちが(例えそれが自分が手を出している女性同士であろうとも)円満な関係であることを喜ぶ、その様子もまた変わりない。ヴィヴィアはくすりと、小さく微笑んだ。
「──さ、完成ですわっ」
それから少しして、ユリエッティがハサミを置き、手鏡をヴィヴィアに渡す。
長さはほとんど変わらないまま、肩口で綺麗に切り揃えられたボブカット。前髪も合わせて少し調整して。シルエットを整えればそれだけで、元々そういうヘアスタイルであるかのように、ベタ染めの黒の中白が何色にもきらめく。特につむじの辺りなど、まるで小さな王冠を戴いているかのよう。
「さて……ムーナとネビリュラが帰ってきたら、水浴びにでも行きましょうか」
「ええ。ありがとう、エティ」
二人にも改めて、何度でも謝意を伝えなくては。そう思いながらヴィヴィアは、ネビリュラの拵えたケープを丁寧に脱ぎおろした。




