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第57話 第二王女、逃走中


 ヨルド共和国、首都。


 大通りから二つほど外れた路地裏で、女が壁に背を預けて座り込んでいた。ずっと着たままのネグリジェの上からみすぼらしいローブを纏い、フードで隠されたその顔には憔悴の色が見え。髪は、艶のない黒に染められていた。あの雨の日の夜に迎賓館を逃げ出してから、もう二週間あまり。家屋の隙間から射す日光で目を覚ましたその女──ヴィヴィアは、また一つ心の中で日を数えた。


(……我ながら、よくまあここまで隠れられたものですね……)


 少しばかり痩けた頬に弱々しい笑みを浮かべながら、独りごちる。


 いくつもの幸運が重なった。

 もとよりヨルド首都は人が多い。同じ国の中心部といっても、ヒルマニア王都以上に人口が多く賑やかで、また単純な面積という点でも前者のほうが広い。ヴィヴィアらの来訪に合わせてその活気はさらに増しており、大通りを中心に毎日屋台や催し物がそこかしこで営まれている。

 もっともヴィヴィアの見る限りでは、ヨルド国民らがヒルマニア王族を熱心に歓迎しているというよりは、共和国政府──元首キシュルがヴィヴィア来訪に張り切ってあれこれと盛り上げようとしており、それにかこつけて目敏い者たちが商売っ気を出し、そして皆がそれに乗っかって楽しんでいる……という塩梅のようなのだが。とにかくその喧騒のお陰で、ヴィヴィアはキシュルの追手から逃れ続けることができている。

 と、そこまで考えて、そもそもこの状況自体がとびきりの不幸だと思い直すヴィヴィア。もう何度目か、こんな思考は毎日のことで、これ自体が自分が弱っている証だと分からされる。元凶たる男に対し、恐怖と憤りの混じった感情を抱かずにはいられない。

 

(世間的には、私は元首キシュルと仲良くやっている……ということになっているようですが)


 当然といえば当然だが、王女が逃げ出したなどという情報は市井には広まっておらず、あくまで密かに、警ら隊に扮したキシュルの手の者が行方を追っている様子。何度となくそれらしい者たちを見かけ、そしてその全ての目を、ヴィヴィアは掻い潜っていた。 

 特にヴィヴィアが逃げ出した前後、つまり王族到着直後などは、首都はちょっとした祭りのような様相を呈していたようで。道の脇には誰かが置き忘れ、踏まれてボロボロになったローブや、使い残した粗悪な染髪料の缶が転がっており。気休め程度にと髪を黒く染めてみれば、これが中々どうして目眩ましになった。


(その執着ゆえに見落としているとは、皮肉なことですね)

 

 どうもキシュルは、何色にもきらめく白髪をこそヴィヴィアの特徴と捉えているようで。彼の命を受け密かにヴィヴィアを探す者たちも、白髪の女にばかり目が行っている様子。愚かなほどに盲目的で、だからこそ今に至るまで、ヴィヴィアを見つけられていない。

 

 そもそも首都には、今のヴィヴィアのような貧素な格好をした者もちらほらと見て取れる。ヨルド最大の街は成功を夢見る辺境者にとって憧れの場所であり、そして実際に首都を訪れ、やがて夢破れて落ちぶれていく者も後を絶たないのだから。それでいて、本物の警ら隊のお陰で治安自体は保たれている。大通り近くであれば、路地裏でひっそりと仮眠を取っても酷い目に会わない程度には。

 人混みに紛れ、街の雰囲気に紛れ、物陰や道端に落ちている小銭を拾っては、最低限の水と食料を確保する毎日。ほんの少し前までの王女としての生活に比べれば惨めという他ない日々だが、それでもヴィヴィアは逃げ続けている。その理由は二つ。一つはヴィヴィア個人としての、キシュルの異常な情念への恐怖。そしてもう一つは。


(兄の様子は明らかにおかしかった。個々人の関係、という範疇を超えて)


 対等なはずの二国の代表者同士としては有り得べからざる上下関係。なにか尋常ではない雰囲気にヴィヴィアの、国政に携わる者としての目が懸念を見出していた。兄ヴェルハドゼールはこれまでに何度かヨルドを訪れている。その折に何かおかしなことが起きた可能性を、どうしても考えてしまう。キシュルの異常性を身をもって知ってしまったのだから、なおのこと。

 いま自分が捕まれば、永遠にあの男の手中に囚われ、それを追求することもできなくなってしまうかもしれない。兄までもがキシュルに与している以上、あの場所に味方はいないと思って良いだろう。

 

遠話器(イヤーカフ)を置いてきてしまったのは、痛手でしたか……)


 とはいえヒルマニア中枢への連絡手段はなく、身分を証明するものも持ち合わせていない。例えばすぐそこの大通りの真ん中でヴィヴィアラエラを名乗りヨルド元首の所業を叫んだとして、きっとはた迷惑なやつとして警ら隊に連行されるのがオチ。そして恐らく、捜索に精を出すキシュルの耳に入り……その後は考えたくもない。

 では首都から出るか? いくらなんでもそれは不可能だろう。間違いなく、全ての出入り口を見張られている。仮に脱出できたとしてどこへ向かう? どう生き抜く?

 それらが分かっているからこそヴィヴィアは動けず、かといって大人しく捕まるわけにもいかず、けれどもどうすれば良いのかが分からない。


 逃げ込む先もなく、終わりもなく、体力的にも精神的にもギリギリの状況。

 こんなことに意味はあるのか。逃げて逃げて、それで何になるのか。兄とキシュルの関係も、単なる杞憂に過ぎないのではないか。自分がこの身を諦めれば、それで済む話なのではないか。思考が鈍り、どこか頭の片隅で、そんなふうにすら思い始めている始末。

 それでもまだヴィヴィアが耐えられているのは、やはり色濃い恐怖と違和感と、基礎的な体力づくりの成果と、そしてある種の夢想によってだった。


(ふふ、どうでしょう……今の私は、冒険者のように見えなくもないでしょうか)

 

 妄想をしたことはある。一度と言わず。あの夜に去っていった恋人と、全てを投げ出して身を共にする選択を。王族として絶対に選べなかったそれを、まるで冒険譚のように夢見たことが、ないなどと言えようはずがない。

 今の自分の様相はまるで、根無し草のしがない冒険者。ヒルマニア貴族の危機を救った恋人と比べればきっと、みすぼらしいにもほどがあるが……それでも、見下ろせば目に映るボロのローブがヴィヴィアに、恋人との“もしも”を彷彿とさせた。そんな現実逃避が、彼女の心を守っている。


(ああ、エティ。なんだか無性に、貴女に会いたい……)


 懐から安く硬い干し肉を取り出しながら、ヴィヴィアは今日もひっそりと逃げ延びる。怯えながら、弱りながら。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 二週間!?意外に逞しいヴィヴィアちゃん そういうイメージがない追っ手にしてみれば捜し出すのは至難の技ですね きっと誰かに匿われてると思っているんだろうな [気になる点] お兄さんが裏切って…
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