第55話 第二王女、ヨルド来訪 2
「──はぁ……」
食事会ののち、割り当てられたゲストルームのソファに腰掛けた格好で、ヴィヴィアは深く息を吐いた。
寝るにはまだ早い時間だが、心労はそれなりに。豪華な内装は要所要所にパールのような虹がかった白味があしらわれており、誰をイメージしてのものなのかは一目瞭然。部屋着として持ち込んだ淡いブルーのネグリジェが、唯一自分を自分足らしめていると錯覚してしまうような、ヴィヴィアにとっては少々居心地の悪い部屋だった。
(キシュル様は、よほどアヴィスティリア女王に執心しているご様子)
今夜の食事会は終始、元首キシュルがアヴィスティリアを賛美するばかりだった。表向きは政治の話は一切なしの和やかな場、けれどもヴェルハドゼール王子とバルエット卿の相槌の数々からして、この流れが予定調和だったことは確実である。
(話を持ちかけたのは兄の方かキシュル様の方か、それは分かりませんが)
無論、此度の訪問で何かが決まってどうこう、という話でもあるまいが。ひとまず今回は顔を合わせ、望むのであれば交流を深め、最終的には両国の架け橋となる、そういう形の執政もあるのだと、目の前に示された形だった。
(予想外の形で兄の外交に巻き込まれた、というと言葉は悪いでしょうか……わたしとキシュル様が関係を結ぶのであれば、それこそまさしく政略)
生涯独身、というわけにはいかないのだろう。
ユリエッティの毒牙にかかっていたというのを理由に、その手の話はしばし遠ざけてはいたが、目をかけてきたのが隣国の元首ともなればスケールが違ってくる。国への影響も。
隣国としての基本的な交友関係はもとより、ヨルドにはもう長いあいだ、ヒルマニアの人口減少抑制に──両国民の移動に関する種々の取り決めから、果ては活力剤……俗に言う精力剤の原料輸入に至るまで──協力してもらっている状態。その多くは、キシュルが元首であるうちに定まったもの。両国関係は対等ではあるが、その対等を今後も維持するのは必須であり。恥も外聞もなく言うのであれば、さらなる協力を得たいというのが王国の本音でもある。この大陸に二つしかない国なのだから、どうしたって密な関係は免れない。
(であれば、わたしの我儘でキシュル様を躱すのは望ましくない……けれども)
もう一度ため息をつきながら、部屋に入ってすぐに開けた突き出しの小窓を見やる。王国の自室にいるときも、ヴィヴィアはこうやって窓を開けて過ごすことがあった。恋人が最後に訪れたのも、窓からだったから。離れていてもずっと恋人だという気持ちは、そしてそれは双方向なものなのだという確信は、欠片も揺らいでいない。七の日の夜はいまだ、“情交”のまま。
(ふふ、エティは新しい恋人も作っている気がしますけれども)
なんとなくだが、そんな予感もする。ほら確か、獣人の少女と国を渡ったという話だったし。
ともかく、そんな恋人とは違って、自分は一人だけを愛するタイプだ。だから彼女以外と、ましてや自分のことを見ていない相手と一緒になるというのは、考えるだけでどうにもこう、心にもやが浮かんでしまう。
(エティは“美貌の女王のよう”だなんて一度も言ったことがありませんでしたね)
それでいて、髪の色も含めてしっかりとヴィヴィアを褒めそやしていた。だから社交の場で最初に出会ったとき妙に印象に残っていて、それがきっかけで──と、思い出に浸り始めたヴィヴィアの視界の先、窓の外からぽつぽつと雨音が聞こえ始めた。閉めなくては、いやそのまま、早いがもう寝てしまおうか。そう腰をあげかけ、そしてそれと同時に反対側、入口のドアをノックする音が。
「ヴィヴィア、こんな時間にすまない。少し良いかな」
続けざまに投げかけられたのは兄の声で、ヴィヴィアは首を傾げる。元首キシュルについてだろうか。とはいってもまさに、何もこんな時間に、なのだが。
「お兄様。いくら肉親といえども、女性の部屋を訪れるには少し遅い時間ではありませんか?」
とは返しつつも立ち上がりドアの鍵を開けてしまったのは、やはり相手が家族であり、また、今回の件について申開きがあるのならぜひ聞きたいという気持ちからであり。そして。
「──こんばんは、ヴィヴィア様」
「なっ……!」
開けた扉の隙間から調度品めいた顔が見えたことに驚き、一歩後ずさってしまった。
その隙をつくように部屋に入り込んできたのは兄ヴェルハドゼールではなく、ヨルド共和国元首、ネルチャグシュッツ・キシュル。白いガウンに身を包んだ、一見してエルフのような男は、後ろ手に戸を閉め素早く施錠までする。そうして微笑を浮かべヴィヴィアを見下ろしたまま、部屋の外に残ったヴェルハドゼールへと声をかけた。
「下がれ、ヴェルハドゼール」
「ですが……」
「下がれと言った」
「……はい、キシュル様」
信じられないやりとりだった。
いくら一国のトップとはいえ、他国の王子──次期国王に命令するなどと。あまつさえ自分の兄が、それに従い去っていくなどと。隣国、元首、王子、そんなものでは測れないもっと根深い上下関係が確実に形成されていると、ヴィヴィアは即座に理解した。そしてそれは同時に、彼女の脳内にさらなる混乱を招く。何かがおかしい、いや、何もかもがおかしいというべきか。さらに数歩後退しながら、ヴィヴィアは語気も強く投げかけた。
「キシュル様、これは一体どういうことでしょう。すでに戯れでは済まないことをしている自覚はお有りですか?」
賢者と呼ばれていたはずだ。二百年の治世でもって、その人格者ぶりをヨルド中に知らしめていたはずだ。ヒルマニアにとっても、世辞抜きに良き隣人であったはずだ。それが何だ? 婦女子の部屋に押し入って、これでは悪漢そのものではないか。いくらヴィヴィアを気に入っているからと言って、やって良いことと悪いことがある。そんな強い非難の意を込めて、ヴィヴィアはキシュルを睨みつける。やはりキシュルは微笑んだまま、エルフ然とした尖り耳が興奮に震えているのが見てとれた。
「ああ、その気丈な姿もアヴィスティリアにそっくりだ……」
紫の瞳は昏く揺らめき、声は熱に浮かされたかのよう。
ヴィヴィアは理解した。影を追う、どころではない。目の前のこの男は、自分を一人の人間としてすら見ていない。いやあるいは、アヴィスティリア女王すらも。一歩近寄ってくる、その挙動の全てに嫌悪感を覚える。後ずさる。近寄られる。後ずさる。近寄られる。それを幾度か繰り返し、僅かなうちにヴィヴィアは、先程座っていたソファの前にまで後退していた。
(……大声をあげたとしても、助けは望めないのでしょうね)
キシュルが自分を手籠めにしようとしていることは明らかで、あまつさえ兄がそれに関与している。下手をすればバルエット卿も。キシュルの異様な情念。兄との異常な上下関係。
恐怖心と防衛本能に加え、なにか尋常ならざる裏があるという予感が、ヴィヴィアにその行動を選択させた。
「っ!」
「おや」
ネグリジェの左袖に仕込まれていた護身用の機構、簡易な麻痺毒煙散布と自身へのその中和、二つの魔法が発動する。王女様ですもの、寝込みを襲われないように気をつけるんですのよ、などという恋人の言葉が不意に思い起こされた。
(今っ)
そして同時、ヴィヴィアは右の拳を握りしめる。
かつて恋人から手ほどきを受けた。それはほんの基礎の基礎、護身術程度のものだったが。
けれども最後の逢瀬のとき。何も纏わず隣り合って横になる、微睡みまでの他愛のない会話の中で彼女は──ユリエッティは言ったのだ。
「日々の鍛錬を欠かさなければ、自分の身を自分で守るくらいはできるようになりますわ」
だから。
(傲握流ッ──!!)
成長と基礎鍛錬によって作られた体が、ネグリジェの下で力を帯びる。正しく育てられた筋肉が、正しく覚えられた挙動に従って躍動する。拳闘士というわけではない。それを生業とする者には到底及ばない。だがそれでも、ヴィヴィアを何一つ知らない相手に対しては、十二分。
「!?」
キシュルがその場から動きもせずに使おうとした煙を払う魔法は、ごく簡単なものであったがゆえに、傲握流拳術の拳に循環させた魔力で魔法を弾く技法によって打ち崩される。次の瞬間には拳が鼻先に直撃し──攻撃を全く想定していなかったその体が仰向けに倒れ込んだ。
「ぐっ、ぅっ……!」
呻くキシュルには目もくれず。
機構にしたがって袖先を切り離して床に放り、身を翻したヴィヴィアはソファを踏み台に跳躍する。半開きの小窓に体当りして、部屋の外へと脱出。長い白髪のきらめきは、土砂降りな雨夜の中へと消えていった。




