第32話 『変異粘性竜』2
抱えていた木の実を放り捨て一目散に逃げるその様子は、とても頂点種とは思えないものだった。しかし即座に追い縋ったユリエッティらが攻撃を仕掛けてみれば、なるほど確かに準A級以上管轄なだけのことはあると即座に理解させられる。
「くっ……!」
諸々の疑問は抱えたまま、それでも飛びかかって殴りつけたその背中は、皮の衣服越しにも分かるほどに手応えがない。むにゅりと柔らかに変形し、そして何事もなかったかのように元に戻る。以前討伐した霊体の鮫のように物理攻撃を透過するわけではないが、それでも拳の威力がほとんど殺されているのは間違いなかった。
(ドラゴンのようなスライムなのか、スライムのようなドラゴンなのか……)
粘性生物は低級な種であれば簡単な魔法で消滅させたり、あるいは物理攻撃でゴリ押しすることも可能ではあるが……強力な個体となると逆に、多くの攻撃に耐えうる柔軟性を獲得する厄介な種族として知られている。そこにドラゴンの要素が合わさっているともなれば、少なくとも生存能力という点において、この『変異粘性竜』はユリエッティらが今までに相対したモンスターの中でも群を抜いていた。
当然、それでもやりようはある。ムーナからエンチャントを貰うなり、拳と魔力の扱いを内部ダメージを蓄積させる型へシフトするなりと。だがユリエッティの心情は今、軽々にそういった“本気”を出すのはどうにも憚られてしまう状態にあった。
「しつこい人達、やっと追い払ったと思ったのにっ……」
「その後任がっ、わたくしたちですわぁっ!」
会話が成り立ってしまっている。自分たちと討伐対象とのあいだに。
それこそ高位のドラゴンのように、人類種が用いる大陸共通語を多少なり理解できるモンスターも存在する。あるいは他の生物の鳴き声を真似るモンスターが、人類種をおびき寄せるために言語のような“音”を発することもある。しかし目の前の粘性竜はどうもそういう領域を超えているように、ユリエッティには感じられた。会話が成立している、それはつまり彼我がある程度共通の価値観を持っているということに他ならず。
「……っ」
そして、そのことに心動かされているのはどうやら『変異粘性竜』のほうも同じようで。初めて話の通じる相手と出会えたかのように、ちらりと振り向いたその横顔には驚きが浮かんでいる。瞳の光も、僅かばかり明るくなっているように見えた。
「お願いだから放っておいて……ワタシは、何も悪い事してないっ……」
哀願、非好戦的、善悪の概念。その何もかもが、モンスターらしくない。見た目で判断するのならば……いやさ、外見からしてモンスターらしからぬ要素が一つと言わずあるのだから、もうユリエッティには、目の前の存在を討伐対象と呼んで良いのかが分からなくなりつつあった。話が通じないという意味では、テトラディのほうがよほどだっただろう。
「っても、仕事だぞこれっ!」
そんな迷いを読み取ったムーナが、声を張りあげながら進み出る。簡易な炎のエンチャントを付与した剣で『変異粘性竜』の肩口に斬りかかり、少しだけその身へ傷をつけることに成功。大したダメージにはなっていないようだが……それでも背を向けての逃走を中断させる程度には痛みがあったらしく、身を翻した粘性竜は、表情を歪めながらバックステップで間合いを取った。
「い、痛い……」
「んぐっ……やめろよそういうのぉ……!」
追撃の気勢を削がれ足を止めたムーナもまた、自分が目の前の相手と会話をしてしまっていることを自覚していた。
ユリエッティもムーナも、言語を真似るモンスターの討伐経験はあった。許しを乞う逃亡犯を容赦なく半殺しにしたことも。しかし今回は、そのどちらとも違う。資料にある限り目の前のドラゴンは、自衛を除いて自分から人類種に危害を加えたことがないのだ。モンスターならそれでも“存在そのものが脅威”という言い分が立つ。だが、こうも人間臭い言動を見せられてしまえば……
「もの凄くやりづらいですわっ……!」
「どうなってんだかっ」
そうして三角形を作るように、二人と一頭は足を止めた。不意に逃げられるような距離ではない。だが容赦なく殺しにいくときの間合いでもない。そんな微妙な膠着状態。ほんの数秒の停滞。ユリエッティは逡巡し、そして口を開く。
「貴女、何なんですの?」
「おい」
大胆かつ雑把な問いにまずムーナからのツッコミが入り、次いで『変異粘性竜』も目を丸くした。表情の変化一つを取っても人間に寄りすぎている、と内心思いながら、ユリエッティは静かに返答を待つ。三者とも構えも警戒も解いていない。いつでも動ける状態にある。だがそれでも、少ししてドラゴンの形をしたそれが口を開いたのは、ユリエッティとムーナの殺気が薄れていたからなのだろう。
「……ネビリュラ」
「あ?」
「ワタシの名前」
「名前ぇ?」
「……ギルノウルの町の裁縫屋、竜人アドビュラ・メドゥルノの……娘……」
「はぁああっ???」
困惑にまみれた返事は全てムーナのもので、けれどもユリエッティの心境も同じようなものだった。名を持ち、人類種の子として生まれたとのたまうモンスター。でまかせか。しかしそれにしてはいやに具体的だ。仮にでまかせだったとしても、人類種と同じ目線で物事を捉えていなければ出てこない嘘だ。ただ知能が高いモンスターというだけでは、こうはいかない。
ぐるぐると考え込み、そのせいで知らず知らずのうちに、二人の拳と剣はほんの少しだけ下がってしまっていた。足先の力も僅かに緩む。明確な隙。それを逃さず『変異粘性竜』──ネビリュラは、今度こそなりふり構わない遁走を見せた。
「んっ……!」
「あっ、しまっ──」
その輪郭がどろりと崩れ、流動体に変わる。脱ぎ捨てる……というよりも抜け出るようにして衣服をその場に置き去りにし、ドラゴンは身を翻して地面を這い逃げていく。脚部もほとんど胴体と一体化した、まるでとてつもなく機敏なナメクジのような動き。粘性生物の基本的な移動法ではあるが、しかし虚を突かれたユリエッティたちは咄嗟の反応ができず、一歩踏み出したときには既にそれなりの距離を稼がれてしまっていた。
「──た、なぁ……」
「ええ……」
まだ追えないわけではない。だが、流動化し地形を無視できる点で地の利は相手にある。日暮れもほど近く、夜の森を無闇に走り回るのは得策ではない。そして何よりも、そんな理由付けですんなりと足を止めてしまう程度には二人とも、ネビリュラと名乗った存在の討伐に疑問を抱いてしまっていた。
「……いやでも、あの動きはやっぱモンスター、だよな……?」
「一つ言えるのは……脱いだ時に恥ずかしそうな顔をしていた、ということくらいですわね……」
難しい表情を浮かべながら、ユリエッティは地面に落ちた衣服とブーツを拾い上げる。温かくも冷たくもなかったが、それでも確かにユリエッティには、彼女の体温が残っているように思えた。
というわけであらすじにも記載していましたあんまり人の形をしていないタイプのヒロイン、ネビリュラちゃんになります。特に擬人化とかはしませんので、こういうの苦手な方がおりましたらぜひこれを機に好きになってください。あと何が相手でもユリエッティが食う側なのは揺るがないので大丈夫です。




