第96話 兆し
そうこうとしているうちに、ユリエッティがキシュルを打倒してから二ヶ月ほどが経過した。
解呪状況の調査はヒルマニア王国全土の三分の一ほどまで進み、ひとまずは王都民を対象にした、解呪されなかった者たちへのユリエッティによる再解呪の日程も本格的に定まりつつある。
二ヶ月前のあの一撃による解呪率は、王都王城からの距離に関係なくおよそ九割ほど。このままいけば(赤子などの現時点で聴取が不可能な者も含めて)全国民の一割ほどに対して追加の解呪を行うことになるだろう、というのがネルヴォラニアからユリエッティへの通達だった。それでも相当な人数には違いないが、ユリエッティも言っていた国民全員ビンタ行脚とまではいかずに済みそうであり、それを喜んでいたのは本人よりもむしろ周囲の者たちのほう。
とくにその内の一人──ネビリュラなどは、ユリエッティは頑張っていたようだししばらく休んでも良いのではないかなどと思っていた。口には出さないが。それはネビリュラが呪いに関しては完全に蚊帳の外であり、また、いま現在彼女自身が非常にゆったりまったりと過ごしているから、というのもある。
人間社会も貴族社会も知らないネビリュラにはよく分からない部分も多いが……ユリエッティは諸々の都合で生まれた家に戻り、そしてその条件として“ネビリュラ、ムーナ、ファルフェルナを屋敷に住まわせる”というのを父親に求めたらしい。その結果ムーナとファルフェルナにはユリエッティの私室の両隣の部屋が、ネビリュラにはシマスーノ邸の離れが丸ごと一つ与えられた。
対外的にはネビリュラはユリエッティのテイムモンスターということになっており、へディルノード公爵やシマスーノ家の家令たちにもそうと伝えられている。流石にモンスターを公爵家の本邸に住まわせるわけにはいかず、では代わりに庭園の一角の小屋を、という形になったのだが……ネビリュラ本人としても、これが中々に居心地が良い。
小屋といってもそれなりの広さがあり、元々テント一つで寝泊まりをしていたネビリュラにとっては家と呼んでもまったく差し支えないほどのスペース。静かで人目にも晒されず、それでいてユリエッティたちとは会おうと思えばいつでも会える距離感。旅の最中での皆がひと塊になっているような生活もそう悪いものではなかったが、なんだかんだと言ってネビリュラとしてはこのくらいがちょうど良く感じられた。
表向きはテイムモンスター、実態としては居候といった形だが、実のところいまのネビリュラには彼女個人の資産というものがあった。キシュルを打倒しヒルマニアを救ったせめてもの礼として、ネルヴォラニアからユリエッティ一行全員に個別で与えられた褒賞が。通貨価値に疎いネビリュラはピンときていないが、それはちょっとした下級貴族の資産レベルであり、ムーナが桁の大きさにひっくり返ったほどの額。とはいえやはり、ネビリュラ自身が街へ出て買い物をするなどというわけにはいかず、基本的にはユリエッティに預けて任せ、なにか欲しいものが思いついた際には伝えて自分の資産から用意してもらう、というのがもっぱらの使い方になっていた。
ともかくそんな、望む生活の概ね全てを手に入れてしまった(と本人は思っている)ネビリュラの小屋、窓際に置かれた大きなベッドの上で。
「──はっ、……ひぃ……」
ネビリュラとユリエッティが、一糸纏わぬ姿で共にいた。
「ふふ、溶けてますわねぇ」
微笑むユリエッティの言葉通り、今日もたっぷりと愛されたネビリュラの体は物理的にとろけ、輪郭が緩んでいる。窓からの月光と枕元の薄明かりに照らされ、体表の色味すら変わって見えるほどに。
「……ぅう」
つい数分前までの自分の乱れぶりを思い出して恥ずかしくなったのか、ネビリュラは小さく呻きながら体を丸めた。白いシーツの上で、柔らかな体表が波打つ。
ネビリュラにとってベッドで寝るのは母親と過ごしていたとき以来だったが、やはり貴族の用意するものは上質なのか、中々どうして寝心地が良い。とくにしなければならないこともなく、食事すらも毎日用意してもらえるという贅沢な生活の中では、ついつい朝も遅くまで寝転がってしまうほどには。
ネビリュラの中にあったある種のストイックさはこのところの生活で急速に薄れつつあり、しかしそんな中でこそ、長く彼女を支えてきた“自分で作る”という感覚は、生きるための術から趣味へと転換しつつあった。ネビリュラがユリエッティに要求するのはその大半が生地や糸、そのほか服飾に関する用品ばかり。生地のストックや縫いかけのものが並ぶ小屋の中は、以前のネビリュラのテント内をそのまま拡張したかのような景色である。自分サイズの作業台なども、木材だけ要求して自作してしまった。小休憩がてらにそれらを見渡して、ユリエッティは笑みを深める。
「ふふ……しかしこの部屋も、ネビリュラらしくなってきましたわねぇ」
「……まあ、そうかも」
そんな、本質はまったく変わらないネビリュラの寝床。しかしそうは言いつつも、ユリエッティが改めて見れば目新しいものだっていくつかある。
例えば、本であるとか。
「そういえば、次の本もそろそろ用意できそうですわよ」
せっかくゆとりのある生活を手に入れたのだから、と読み書きを習得しようと考えたのもまた、ネビリュラ自身だった。学習の教本となり得るものを見繕ってもらい、ユリエッティにムーナにファルフェルナにと様子も見てもらいつつ、少しずつ学んでいる。やはりと言うべきか驚異的な学習能力でもって、ネビリュラは現時点でもう大陸共通語の幼児レベルの読み書きを習得しつつあり、また、それを驚きはすれどもいまさら恐れなどしないユリエッティらが惜しげもなく教導するものだから、ネビリュラ自身も気分良くどんどんと能力を伸ばしていた。
「……次も、教えてくれると嬉しい。手が空いていればで良いから」
「ええ、もちろんですわ」
心身とも蕩けているからか、いつもよりも素直な物言いのネビリュラ。ますます気を良くしたユリエッティが、ではもう一戦と彼女の肢体に熱視線を向け──
「……あら?」
そしてはたと気付いた。次はこの辺りを攻めようかと見下ろした腹部、ネビリュラの体表がとろけ、色味も少し変わっていたからこそ、目に留まった。なにか小さな、色の濃い一点がそこにある。
「…………しないの?」
「いえ、もちろんシますけれども」
灯りを手にとってかざし、その小さな斑点のようなものに目を凝らす。ネビリュラのなだらかな腹部の、人間でいえばちょうどへその辺り。一瞬、本当にへそでもできたのかと思うユリエッティだったが……顔を近づけてよくよく見てみれば、それがただの点でも丸でもない、ある形状を伴ったものだと気付く。気付いて驚き、ぽかんと口を開ける。
「…………え、ちっっっっっちゃいネビリュラ?」
「………………え?」
今日よりも以前、ネビリュラがこの離れに住み着いてから初めてユリエッティとまぐわった夜に、ひっそりと彼女の体内に宿っていたそれは──この瞬間の二人には知る由もなかったが──紛れもなくネビリュラとユリエッティの子であった。




