第6話 【攻略対象 勇者アルルク】絶望的な状況
ぐるるるる……
重低音となって腹の底に響く唸り声は、獰猛な肉食獣のそれだった。
レーナの居た場所に鋭く尖った尻尾の先端を突き立てた異形は、逃げた獲物に毒々しい赤一色の眼を向けて、口惜し気に唸り続けている。視線を向けられているのは、間一髪、アルルクに首根っこを掴まれて、思い切り背後に投げ飛ばされたレーナだ。
異形は、濃い紫の靄を纏ってはいたけれど、朝日の中でその姿は驚くほどはっきりと捉えることが出来た。人と同じく2本づつの手足で――けれど頭部の左右に大きく突き出た捻じれたツノと、背中に生える蝙蝠に似た1対の翼、地面に付きそうなほど長く伸びた腕が特徴的な容姿だ。腕の先には長すぎる指と鋭い鉤爪が付いていて、苛立っているのか足元に転がる大石をガリガリと音を立てて引っ搔いている。身体はびっしりと鈍色の鱗に覆われていて、頭部から背中にかけて白い鬣が付いていた。
本能的な嫌悪感と恐怖が込み上げるには充分すぎる異質な姿だ。
こんな生き物が居るなどと云う話は、レーナがこの世界に生まれてからの12年間、一度も聞いたことは無い。何より、こんなモノが普通にうろついているのなら、ごく一般的な親なら絶対に、子供だけでその生息地に当たる場所へ送り出したりはしないはずだ。今日も、彼女が夜勤帰りの父親と入れ違いで家を出発するときに「休んだっていいんだぞ? レーナの笑顔を見れるだけでお父さんたちは元気になれるんだから、近所の子たちと遊んで来ても良いんだぞ」などと、鬱陶しい程しつこい心配と気遣いをみせていたのだ。そんな親が、異形が居ると分かっている場所へ子供が向かうのを止めないわけがない。
「つまり、完全なイレギュラーってことよね。はぁ……、なんでわたしにばっかり、こんなおかしなことが起こるんだろぉ」
大きすぎる恐怖心が、かえってレーナを冷静にさせる。
(ここに生まれる前は、ソーシャルゲームで推しを目指していた平凡な女子高生だったんだよね。転生なんて特別な経験をしたのなら、凄い力が――とか期待もしたけど、そもそも言葉で躓いちゃったから年齢なりにお勉強していくしかなかったし。身体能力だって、年齢なりどころか織物家業のアルルクよりもずっと小柄だから、力仕事もやっとで、井戸から釣瓶を引き上げることもできないし……。なんでこんな一般庶民転生しちゃったわたしに、イレギュラーが襲ってくるのよーーーー!!)
レーナは、現実逃避したくなるほどの危機に、ついここまでの人生を振り返ってしまう。走馬灯だとは思いたくないが、その可能性は高い……と、絶望的な視線を異形に向ける。
すると、レーナの怯えが伝わったのか、異形が耳まで裂けた口を歪めてニヤリと笑った気配がした。醜悪な表情で見据えられて、彼女は全身が震えて一歩も動けない。異形はレーナの反応を愉しむ様に、長い両手を振り上げ、もったいぶって鋭い爪の切っ先をゆっくりと彼女に向けてゆく。
「こ、こ、こここ、こっ……」
短い第2の人生だったな――との諦めと共に、レーナが目を瞑ろうとした瞬間、間の抜けたニワトリの鳴き声が響いた。いや違う。声の主は、レーナの目の前で、震えながらも両足を踏ん張って仁王立ちしているアルルクだ。背中を向けられて表情は見えないけれど、声が震えていることから、恐怖心を押し殺して無理をしているのは確かだ。
「このや・ろぉーーーー!! レーナに手はださせねぇぇぇっ!!!」
アルルクは叫ぶと同時に地面を蹴り、異形に向かって突進する。右手にレーナが取り落とした水桶を引っ掴んで。
(え!? なに持って――)
どん
突拍子の無いアルルクの行動に、注意を持っていかれた瞬間、レーナは脇腹に強い衝撃を受けた。次いで、足元から地面の感覚が離れて、全身が勢い良く空中に吊り上げられる。
「レーナァァァァァッ!!! くそっ」
レーナが状況を理解できずにいるうちに、アルルクの絶叫がやかましく木霊して彼女の鼓膜を震わせた。耳がキンキンする程の大音声だ。しかも「くそ」などと、とんでもなく乱暴な言葉遣いをしている。だからレーナが、いつも通りに注意しようと口を開きかけると――
ごぽっ
――と、生ぬるい液体が口から溢れた。