このまま家に帰ったら後悔するから
どんな恐怖体験をした後も、世界が崩壊したわけでも、自分の存在が消えてなくなってしまったわけでもなく世界は変わらず動いていく。
変わったのは千吉良春宏の視点だけだ。
世界を見る目が変わったと言うべきか、あんな奇想天外な世界があると知りながら見るいつもの世界はこれ以上なく平穏に思えた。
登校するのが嫌な学校も、退屈な授業でさえも、あの世界の出来事に比べれば平穏でいつもよりも前向きに取り組めたような気がしていた。寧ろ本当にあの世界は真実だったのだろうか。もはや、夢のような感覚すらある。
「(八丁さんは特に変わった感じはしないんだよなぁ)」
ふと、隣の席に視線をやればナイスなギャルがいるわけだ。そして、昨日は千吉良の命を救った人物でもある。
目があえばニパーっとした笑顔を向けてくれる。
段々と夢のような気がしてしまうのだから、人間は色々欠陥があると思う。
試してみるしかない。
「あー、唯、さん?」
「え、なに? どしたの急に。あ、もしかして昨日のこと気にしてる系?」
そこまで言って八丁唯は口に手を当てて、フルフルと首を横に振るう。小動物のようで可愛い。
可愛いからと言って、今の発言を見逃されるわけではない。
「昨日って、なに? 教室、のことじゃないよね」
「え、いや、昨日見たテレビでさ、なんていうかその、苗字呼び? は良くないって、ね!? ね!」
どれだけ嘘が下手なのだろうか。
よく今までこのことを隠し通せたものだと思う。
「八丁さん、悪いとは思うけどさ昨日のこと、ちゃんと説明して欲しい」
「……だめ?」
掌を合わせて、小首もかしげて見せる。
「ぐっ、可愛い……」
「え? え!? 可愛く、ないし……」
余りの可愛さに声が出てしまったらしい。憎たらしい口だ。正直すぎて鼻が伸びる気配もない。
追加で言えば、可愛くないしと照れ隠しする姿もものすごく可愛らしい。
それよりも今は大事なことがある。
「その可愛い八丁さんに説明してもらいたいことだらけなんだけどさ」
「は……さん、はやめて……」
「? ごめん、聞こえなかった」
「八丁さんは、やめて」
「え、あ、うん。じゃあ何て呼べば」
「ゆい、唯って呼んで」
「あ~」
「?」
別に呼ぶのはやぶさかでもないし、八丁唯との距離を縮めることができるならばむしろ喜ぶべき出来事だ。だが、なんというか単刀直入に言えば恥ずかしのだ。
千吉良は正常な男子高校生として、軽々しく女子の名前を呼ぶようなことができない。
「ちょっと猶予が必要でございます」
「アハハっ! 何その言葉遣いっ!」
どうやら変な言葉遣いが八丁には面白かったらしい。
精一杯の照れ隠しだと言うのに、千吉良は頬と耳が熱くなるのを感じた。
どうしてこちらが照れなくてはならないのだ。
「ごほん、一旦は唯さんで手を打たせてもらいたいんだけど?」
「う~ん……」
お気に召さないか。
「マルっ!」
ぺかーっとした笑顔と、大きく腕で作った丸で良いとアピールしてくる。
それだけでちょっとクラスの視線を集めてしまう。
「じゃあ唯さん、改めて説明をお願いしたいんだけど……」
「のんのん、まずは千吉良君もといハルくんと呼んでもいいかの確認から入ろうよ」
「え、そりゃご自由にって感じだけど」
「はい、決まり! よろしくね、ハルくんっ」
ため息が出る。
もう少し自分の容姿を考えて行動して欲しいものだ。
「じゃあ——」
続きを、と言おうとした途端耳慣れたチャイムが学校中に鳴り響いた。始業の合図だ。
「唯さん、まさか……」
「さ、授業始まるよ」
うまく誤魔化されてしまった。
結局唯さんは放課後まで取り合ってくれず、放課後も気が付けば姿を消していた。
「……帰るか」
せめて、との思いで千吉良は帰りにより道をすることにした。
駅から少しそれた路地。昨日、あの奇妙な世界へとつながった場所だ。
「特に何も……」
変わったことはなさそうに見えた。
「あっ」
千吉良は道ばたに落ちたキーホルダーを見つけた。これは、千吉良が身に着けていたモノの一つだ。
さらにその先、明らかに異様な傷跡を路地の幣に見つけた。
「これは、あの化け物の爪……」
間違いない。あの時見た爪のサイズとそっくりな傷跡だ。
こんなもの、昨日今日でそう簡単にできるはずがない。
「ここと、別世界は繋がっている……?」
ここだけなのか。
もし仮に、ここだけでなく世界全体があの世界と繋がっていたとしたらどれだけの被害が出るのだろう。
少し考えて恐ろしくなった。
こんなこと、一人の高校生が考えるべきではない。唯さんには悪いが、やっぱり説明はいらない。見なかったことにするのが一番いいのだ。好奇心で首を突っ込む問題じゃない。
「うおっ」
引き返そうとして、足が滑った。
「なんだ、水でも……、、、」
血だ。
そう言えば見覚えがある。
ここは千吉良が八丁唯に助けられた場所だ。だとすればこの血は間違いなく彼女のものだ。
「今も戦ってんのかな」
少し気の毒だとは思う。
あれだけのことをしても、感謝などはされないだろう。そもそもあんなこと思い出したくもない。
それが千吉良には少し寂しく感じられた。
「帰ろう」
どうにかできることではない。自分の能力と立場は自分がよく知っている。
仮にあそこに行けたとて、できることなど一つもない。
「っ!」
一歩踏み出した途端、隣の塀が大きな音を立てて崩れ落ちた。
間違いない、今、彼女は戦っている。
「唯さんっ!」
声を挙げたって届くはずもない。だが——
「くそっ、なにかないのか……っ!」
少しでも何かをしてあげたいと思う。
この気持ちは偽善だ。
このまま知らないふりをして帰った時に、後悔するのが嫌なだけだ。本当にずるいと自分でも思う。
「けどさ、俺もハッピーで助けられた方もハッピーならよくないか?」
ヒッとニヒルに笑う。
「俺をそっちに連れてけ、このあほんだらっ!」
年甲斐もなく全力で叫ぶ。
そんな少年漫画的根性論で何とかなるわけでもない。ただ、奇跡と努力は違うものだ。
奇跡は起きる。努力を伴わずとも。
「きた、きたっ——連れてけ……」
またあの浮遊感だ。
今の不快感はもう高揚感で何もなくなっている。
今千吉良は世界にとって招かれざる客ではない。招待されたれっきとした、世界の人間だ。