あまりに恐ろしかったからギャルのパンツを見損ねた
誰かが人間とは慣れと諦めの生き物だと言った。ともすれば、千吉良春宏がこうして遭遇した奇々怪々な出来事ですら慣れ始める時期が来るのかもしれない。
「んなわけあるかぁぁぁぁぁッ!」
千吉良晴彦はついこの間まで何も変わらず普通の高校生活を送ってきた。
変わっているのは名前だけ、それが千吉良の自称コンセプトでもあった。
「変わってるのは名前だけ、そうだよな!?」
客観的に見て、今の千吉良にはそう思える要素は一つもなかった。
具体的には、制服を着て逃げ回っている千吉良に、制服を着て追いかけまわしている女。そしてそれをさらに追いかける化け物。形容しがたい化け物だが、少なくとも腕は七本は生えていそうだ。それだけでもう二度と視界に納めたくはない。
幸か不幸か、追いかけられている片方は美少女だ。視界に入れられる余裕はないが、振り返ればさぞ絶景が広がっていることだろう。
「よし、よし、一二の三で話だけでも聞いてみよう。人類皆兄弟ってな……。行くぞ、一二の三——」
声をかけるのならば、顔を見て。
そんな律儀な常識的思いが千吉良の首を無意識的に後方へと向かわせる。
「やっぱなし!」
視界に入った光景は、七本だか何本だか腕の生えている化け物と、とんでもない美少女が、これまたとんでもない恰好で戦っている奇想天外な、絵画にすれば死後評価されそうな状況だ。
「うわ、ぁぁぁ」
情けない声が漏れる。クラスメイトに今の声を聴かれでもしたら三年間はいじられてしまう情けなさだ。でも仕方ないと思う。足元のコンクリートが豆腐のように切り裂かれては、寧ろこんな声で済んだ奇跡を賞賛して欲しいくらいだ。
「大丈夫!?」
「あんたのせいで大丈夫じゃないです!」
「は、はぁ!? こっちは助けてやろうってのに、何て言い草よ!」
「どこが!? 化け物二人に追いかけられる気持ちになってくださいよ!?」
「どこに化け物が二人いるってのよ……」
「…………」
「あ、た、し、のこと?」
そういう目をするなら、貴方で間違いないです。
「危ないっ」
「へ?」
これまた情けない声だ。恥ずかしさで、汗をかいている気がする。
もういっそのこと殺してほしいくらいだ。状況的に起こってしまいそうだから、本当に冗談だが。
「痛っつ……」
「八丁さん!」
「名字であんまり呼ばないで、欲しいな。可愛くないじゃん……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、……血がっ……、っ俺を庇ったせいで」
「大丈夫、ちょ~と痛いだけだから。目つぶってな、すぐ終わらせてやっからさ」
ここで軽くウインク。
可愛いからとても様になっている。
「何言って——」
八丁、と呼ばれた女が負傷した脇腹を押えながら駆ける。
格好は制服のままで、凄まじいスピードで走るとパンツが見えてしまいそうだ。だが、そんなところに視線を配れるほど、右手に持たれた重々しい剣に違和感がないわけではない。
「ふっ!」
迫りくる腕を切り落とし、化け物に近づいていく。
目の前に迫る恐怖があると言うのにもかかわらず、その剣は美しく見えた。
「やっ」
また腕を切り落とした。
「せいやっ!」
もう一本。
もう既に化け物の腕には、目で見てすぐにわかる数の腕しかついていない。これではただの大きい緑の人間だ。
もちろんその状態でも普段に出会えば恐怖を感じることは間違いないが、今は全く怖くない。もう既に千吉良の視点は化け物でも、重々しい剣でもなく揺れるスカートに向けられていた。
「やああああああっ」
美しい剣技に見惚れている間に、あれだけ脅威に感じていた化け物をあっさりと倒してしまった。
「ふぅ、もう目開けていいよ、千吉良君」
「あ、ありがとう。八丁さん」
「あ、もしかしてずっと目開けてたな~、折角気を使ってあげたのに——きゃっ!」
「八丁さん!」
やはり疲れていたのか、八丁の足がもつれ倒れかける。
「ふぅ、だいじょう、ぶ……?」
「え、あ、う、うん」
倒れかけた八丁を受け止める形で、千吉良はほぼハグしているような形になってしまった。
やけに頬が紅潮した八丁を見ると、心配になりつい疑問形になってしまった。ただ、それよりも目下の問題は役得というべきか顔の近さである。
「(うわっ、まつ毛長っ……というか顔近っ)」
「ご、ごめんね。あたし重いよねすぐどくね、……あはは」
「いや八丁さんは軽かったよ」
「え!? なになに、そんなこと言ってもなんも出ないよ!? え、ほんと? ほんとにホントに重くない?」
捲し立てるようにしゃべる。化け物と戦っている時よりも機敏だったのではないか。
化け物、そう化け物だ。
「八丁さん、あれ何?」
「へ? ……んー、千吉良君は知らなくても大丈夫だよ」
「そういうわけにはっ——「いいの、今日は怖い思いさせてごめんね? じゃーね、また明日千吉良君」
不意に優しい顔を見せる。
「何言って——」
背を向ける八丁を追いかけようと手を伸ばしたが、手が彼女の華奢な身体に触れる前に奇妙な浮遊感に襲われた。
なんとなく、この場所にいられないことが分かった。
「くそ、見なかったことにしたいよ……」
魔術も魔法も、奇跡もない。
あるのはただ純粋に、今までの平凡な世界が音を立てて崩れ落ちただけだ。
そんな恐怖にのまれながらふと、八丁のパンツを見れなかったことを後悔して千吉良は目を閉じた。