グラシエラの暗躍
時刻は日の出前の時間帯である。まだフロレンシは目覚めていないだろう。
彼が起きる前に、私は行動する。
メイドが着ているエプロンドレスに袖を通し、全身をすっぽり覆う外套を着込む。頭巾を深く被って、顔が見えないようにした。
念のため、メイドに宛てて少し出かけてきます、と置き手紙を残しておく。お昼までに戻らなかったら捜索依頼を出してください、とも追記しておいた。
これで、私の不在に気付いても騒ぎにならないはず。
早朝の屋敷は信じられないくらい静まり返っている。
こういうとき、使用人をあらかじめ解雇しておいてよかったと思ってしまった。
誰にも見つかることなく、裏口から外に出る。
もしかしたら父の死を嗅ぎつけた記者がいるのではないか、と思っていたが信じられないくらい静かな朝だった。
裏門から貴族街の路地裏に出て、下町を目指す。
向かった先はなんでも屋〝禁断の木の実〟である。
ここは人の血肉から盗品、ありとあらゆる薬物など、手に入らない品はないという危ない店だ。
時間が巻き戻る前の人生では、私はここに叔父の指示でビネンメーア王妃から盗んだ品を売りに来ていたのだ。
フルットプロイビートの場所は巧妙に隠されていて、下町にある路地の、行き止まりの先に存在する。
壁にある隠し扉を開いた先に店舗があるのだ。
昼夜問わず営業しているので、早朝でも店主は客を待ち構えているだろう。
隠し扉の仕掛けを解き、店内へ足を踏み入れる。
薄暗く不気味な店内は、香辛料と古物の臭いが混ざったような独特な空気が漂っていた。
店の奥にいる店主が、ギョロリとした視線を向けつつ、声をかけてくる。
「カンポ・デ?」
「フローレス」
これは取り引きを可能とする人にのみ交わされる暗号であった。
時間が巻き戻る前の人生で叔父から聞いていたので、難なく答えることができた。
「何が必要なんだ?」
「旅券を二名分いただけますか?」
「目的は?」
「その人物に成り代わって、ビネンメーアに逃げ込もうと思いまして」
フルットプロイビートの店主は口がとてつもなく堅い。代金に口止め料が入っているからだろう。
さらに私が処刑されるときも、この店を摘発できる者はいなかった。
あくどい商売をしているものの、目的があって利用する分には頼りになるのだ。
「どういった人物の旅券を望んでいる?」
「そうですわね」
可能であれば、貴族の母子がいい。夫から逃れて、ビネンメーアに逃げ込んだ、という設定を先ほど思いついたのだ。
「ならば、この母子はどうだ?」
店主は名前が空欄になった旅券を二枚、取り出してくる。
そこには家名であるドーサが書かれてあるばかりで、名前の欄は空欄だった。
「こちらはなぜ、名前がないのですか?」
「他の奴に売った。名前は自由に決めていい」
「なるほど」
なんでも旅券の持ち主は賭博が趣味の夫の借金取りに追われ、息子の旅券ともども奪われ、この店に売り飛ばされたらしい。なんとも気の毒な話である。
「わかりました。では、こちらをいただきます」
代金が告げられたが、想定内であった。
父が遺してくれた持参金から支払う。
店主は金貨を慎重に数え終えると、小さな声で「まいど」と言った。
「して、名前はどうする?」
「そう、ですわね」
グラシエラとフロレンシと名乗っていたら、叔父に見つかる可能性がある。
かと言って、自分の名前を捨ててビネンメーアに行くのもなんだか悔しい。
これまで大人しくしていたガッちゃんが、私の肩に乗って明るく鳴いた。
『ニャニャ!』
それはガッちゃんが私の名前を呼ぶときの鳴き声だった。
おそらくグラシエラの愛称である、「ララ」と呼びたいのだろうな、と思っていたのだが。
「そうですわね。わたくしの名前は〝ララ〟にしましょう。フロレンシは――」
『ニャ!』
「〝レン〟ですわね」
『ニャー』
ガッちゃんはそのとおりだ、とばかりに頷く。
ララ・ドーサとレン・ドーサ。
私達は母子として、新しい一歩を踏み出すのだ。
店主に礼を言って店を出る。
すっかり太陽が昇り、青空が広がっていた。
賑やかになった街中を足早に過ぎ去り、屋敷に戻る。
裏口には執事が待ち構えていて、申し訳なさそうに言った。
「グラシエラお嬢様、フロレンシお坊ちゃんがお目覚めです」