想定外の招待
ある日の晴れた午後――フロレンシと共に庭を散策していたら、水が張ってあるバケツに革の水筒が浮かんでいるのを発見した。
「お母さん、これは庭師のおじさんの誰かが忘れた物でしょうか?」
「そうかもしれないですね」
「どうして浮かんでいるのでしょう?」
「中が空っぽで、空気が入っている状態だからですよ」
「では、中に水を入れたら沈むのですか?」
「ええ」
しゃがみ込んで水筒を拾い上げようとした瞬間、あることに気付く。
それは、湖で溺れて亡くなったイルマについてだ。
もしも足を滑らせ、溺死してしまったのならば、その遺体が湖に浮かんでくるというのはおかしいのではないのか。
溺れたとしたら、水をたくさん飲んで体が重くなり、体は湖の水底に沈むはずだ。
いったいどうして、彼女の遺体は湖に浮かんでいたのか。
その理由は簡単である。
誰かに殺されて、その身を湖へ投げ込まれたからだ。
彼女の遺体は沈まずに、湖に浮いた状態で発見された。
イルマの死は事故ではないのかもしれない。
それに気付いた瞬間、胸がどくんと激しく鼓動する。
「お母さん、どうかしたのですか?」
「あ――いいえ、なんでもありません。水筒は園芸用に使っている物かもしれないので、ここに置いておきましょう」
「わかりました」
なんだか恐ろしくなって、フロレンシの手を引いてコテージに戻った。
◇◇◇
ローザと裏庭へ行ってから、イルマの死について考え込むようになってしまった。
彼女はなぜ、死んでしまったのか。
足を滑らせて湖に落ち、溺れ死んでしまった、というのが騎士隊の調査結果だったようだが。考えれば考えるほど、違うような気がしてモヤモヤするのだ。
もしかしたら彼女は誰かに殺されてしまったのかもしれない。
考えれば考えるほど、どうしてイルマが手にかけられてしまったのか、わからなくなる。
引っかかる理由はそれだけではない。
ビネンメーアで出会った人々が皆、イルマの家族や知り合いで、彼女の存在が三年経った今でも大きくあるように感じている。
そして、突然の死に納得できていないのを、言葉の端々から感じ取ることができるのだ。
結婚を目前とした年若い娘が、危険だとわかっている行動に出るわけがない。
たとえ愛に応えられないと婚約者から言われたとしても、貴族の家に生まれた娘ならば、それが当たり前だと理解しているだろう。
さらに、彼女が向かった場所も疑問のひとつだった。
昼間でさえ薄暗く、普段から霧が立ちこめているような湖に、夜中にひとりで赴くだろうか?
私だったら絶対に無理だ。
もしも歩いて頭をすっきりさせたいと考えたならば、裏庭ではなく庭で充分なのではないか。
おそらく何か大きな理由があって、イルマは湖に足を運んだに違いない。
イルマの死については、不可解な点が多すぎた。
騎士隊が調査したものとは別の真実があるとしたら、残された彼らはイルマの死を認め、穏やかに過ごせるかもしれない。
だから私は、彼女の死の謎について、解明したいと思うようになっていた。
◇◇◇
イルマについてどういうふうに調査をしようか。
考えている私のもとに、一通の手紙が届く。
アニーが「侯爵夫人より、今すぐ内容を確かめるように、とのことでした」と言うので、便箋を裏返して誰からの手紙か確認した。
差出人の欄に書かれていたのは、カリーナ・フォン・グラウノルン――国王の公妾であった。
頭上に疑問符が大量に降り注ぐ。いったいなぜ、公妾が私に手紙を送ってくるのだろうか?
封筒を開け、中にあった便箋を引き抜いた。ドキドキしながら、手紙を読む。
そこにはヴルカーノの文化について触れたいので、お茶を飲まないか、という招待だった。
あまりにも私が頭を抱え込むので、ガッちゃんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
『ニャア?』
「あ……ええ、ガッちゃん、大丈夫ですわ」
ガッちゃんの円らな瞳が、「大丈夫ではないよね?」と訴えているように思えてならない。
貴族の付き合いは政治的な意図が絡むときもある。公妾に会うか否かは、私が勝手に判断していいものではないだろう。
一度侯爵夫人に話を聞こう。そう思って立ち上がったのだった。
侯爵夫人は庭に出て、優雅に紅茶を飲んでいた。
今日は天気がよく、気温もそこまで寒くないので、気持ちよく過ごしていたようだ。
私を見るなり、侯爵夫人は公妾からの手紙について触れた。
「あなた、カリーナ・フォン・グラウノルンから手紙が届いたのですって?」
「はい」
「どんな内容だったの?」
「それがその、ヴルカーノの文化について知りたいので、お茶を囲んで教えてほしい、というお誘いでした」
「まあ。回りくどい物言いをするのね」
手紙の意図について、侯爵夫人がわかりやすく説明してくれた。
「彼女はきっと、自らの勢力を強めたいと考えているの。あなたに取り入ることによって、最終的には私達侯爵家を味方に付けようと画策しているのよ」
「ああ、そういうわけでしたか」
将を射んと欲すればまず馬を射よ、という作戦だったようだ。疑問が一気に解決する。
公妾を支持する者の多くは、新興貴族だと聞いていた。ファルケンハイ侯爵家のような、歴史ある一族は公妾を支持していない。
侯爵家が味方となれば、公妾が立つ社交界の基盤も確固たるものになるだろう。
「では、こちらのお誘いはお断りを――」
「いいえ、彼女とは一度会ったほうがいいわ」
まさかの言葉に、我が耳を疑う。
「侯爵夫人、それはなぜでしょうか?」
「あなた、前に王妃殿下とお話ししたでしょう?」
「はい」
「それと同じように、カリーナ・フォン・グラウノルンと話して、彼女がどのような人物か知っておくのは、損ではないと思うの」
直接自分の目で見て、相手がどういう性格で、どういう考えを持っているのか知るのは、大切なことだと言う。
「社交界で公妾はとんでもない性悪女で、国王は年若い娘に騙されている、なんて噂話も流れていたでしょう? その言葉のとおりか、自分で見極めるのも、なかなか楽しいと思うの」
「ええ……」
ただ気になるのは、私が公妾のもとへ足を運んだという話が広がり、公妾派だと思われてしまうのではないか。その点に関しては、心配いらないと侯爵夫人は言う。
「派閥の主張は夜会などの行事の場で、双方を象徴するような小物を身に着けることだから、会っただけで派閥に所属したと勘違いされることはないわ」
「それを聞いて安心しました」
ならば、一度会ってみるのもいいだろう。
そんなわけで、侯爵夫人の勧めもあり、公妾と会ってみることに決めたのだった。
◇◇◇
バタバタと忙しく過ごしているうちに、公妾を訪問する日を迎えた。
手土産として用意したハンカチを、ガッちゃんと一緒に包装する。
絹のハンカチに、ガッちゃんと作ったレースをあしらった品だ。
お気に召してくれるといいのだが。
ドレスはビネンメーアに来てから初めて自分で購入したドレスである。
ウィローグリーンの美しい布地は、肌触りがとてもよかった。
背中にあるボタンはガッちゃんが留めてくれた。
化粧もしっかり施し、既婚女性に相応しい華やかさを演出する。
髪型もビネンメーアの流行を勉強し、ガッちゃんと一緒に結えるようになった。
一時間ほどで身なりを整え、フロレンシの見送りを受けながら、侯爵邸を発つ。
ガッちゃんは胸にしがみつき、胸飾りに扮してくれた。
ひとりではないので、少しだけ緊張が和らぐ。
ずっと馬車に乗っていたかったのだが、すぐに王城へ到着してしまった。
待ち構えていた侍女の案内で、公妾のもとへと向かう。
侍女が扉を叩くと、美しい声が返ってきた。
扉が開かれ、豪奢な美女が余裕たっぷりに微笑んでくる。
「いらっしゃい」
天より光が降り注いでいるのではないのか、と思うくらいの美しい女性――彼女がカリーナ・フォン・グラウノルンだった。