裏庭にて
私がビネンメーアの社交界の派閥問題やマントイフェル卿について戦々恐々としている間に、フロレンシは黙々と勉強していたらしい。
三ヶ月くらいかかるのではないか、という内容をたった一ヶ月で習得してしまったようだ。
勉強を見守っていた侯爵夫人も驚くようなレベルだったらしく、「レンは間違いなく天才よ」というお褒めの言葉をいただいた。
それだけでなく、絶対に教師を付けたほうがいいと私を説得し、家庭教師を招いてくれるようになった。
新しく教師が出入りするのをきっかけに、侯爵邸は変わっていった。
まず、使用人が増えた。
侯爵夫人はフロレンシの世話をする従僕とメイドを新しく雇い入れてくれた。
それにより、従僕だったロイドは執事に、メイドのアニーはメイド頭に昇格。トニーは総料理長に、ローザは家政婦長の地位を与えられた。
侯爵邸の環境は変わったが、週に一度ある使用人の休日はそのまま残った。
その日は私が食事を作り、侯爵夫人やフロレンシと囲むという、静かな一日を過ごす。
侯爵夫人から、「あなたは大変だろうけれど、私はなんだか癒やされるわ」というお言葉をいただいた。
ビネンメーアにやってきてからあっという間に月日が経ち、想像していなかった穏やかな毎日を過ごしている。
私とフロレンシを受け入れてくれた侯爵夫人には、感謝しかない。
◇◇◇
ある日の午後――庭で侯爵夫人の部屋に飾る花を探していた。
寒さが厳しい季節だと言うのに、侯爵邸の庭には美しい冬の花がいくつも咲いている。 橙色の美しい花があると思って近付いたら、駒鳥だった。
私の接近に驚き、バサバサと羽音を立てながら飛び立って行く。
『ニャ、ニャー!』
ガッちゃんが「あそこにきれいな花が咲いてる!」と教えてくれた。
紫色のジギタリスが満開だった。
ジギタリスはあまり花瓶に活けるような花ではないが、珍しくて面白いかもしれない。
しゃがみ込んで摘もうとしたところに、背後から慌てたような声がかかる。
「ああ、ドーサ夫人、いいところにいましたー!」
明るく賑やかな声の主は、最近家政婦長に昇進したローザである。
様子からして、何かあったのだろう。
「ローザさん、どうかしたのですか?」
「大事件です! 侯爵夫人が気に入っているハンカチが風に飛ばされて、行方不明なんです!」
午前中は風が強く、洗濯物がよく乾いたらしい。
喜んでいたところ、ハンカチがないことに気付いたようだ。
「実はそのハンカチ、イルマお嬢様からの贈り物で、超絶なお気に入りの一枚なんですよー」
「それは大変ですわ」
「そうなんです」
一時間ほど、必死になって探していたようだが、見つからないと言う。
「もしかしたら裏庭のほうに、飛んで行っているかもしれなくて……」
珍しく、ローザの声は小さくなっていった。
「それでその、ドーサ夫人、一緒に裏庭に行ってくれませんか?」
「いいですけれど、どうして?」
「侯爵邸の裏庭って、昼間でも薄暗くて不気味なんです」
「ああ、そういうわけでしたか」
そういう事情があるならば、同行しようではないか。
なぜか私が先頭を歩く形で、侯爵邸の裏庭を目指した。
屋敷の角をくるりと周り、初めてやってくる裏庭へと足を踏み入れた。
「ここは――!」
裏庭は木々が生い茂っていて、湿度が高い。薄暗く、じめっとした独特の雰囲気だった。
「驚きました。表の庭と裏庭で、こんなに違うのですね」
「そうなんですよー。怖くて、絶対にひとりでは行きたくないんです! それに――」
「それに?」
「いえ、なんでもありません」
何を言いかけたのか気になったものの、今はハンカチを探すのが先決だろう。
「風に飛ばされたというので、地面に落ちているというより、木に引っかかっている可能性が高いと思うのですが」
「ああ、なるほど! さっきから地面ばかり見ていました」
歩いていると、なんだかぞくぞくしてくる。
ローザの言うとおり、ひとりで近付きたくない場所だ。
「もしもハンカチが見つからなかったら、私、解雇になります」
「大丈夫ですよ。そのときは、一緒に謝りますから」
「ドーサ夫人、なんて人がいいのですかー!」
ローザと話しているうちに、気が紛れてきた。
なるべく会話をしながらハンカチを探そう。
裏庭をずんずん進んでいたら、ローザが私の腕を強く引いた。
「うっ、その先は!」
「何かあるのですか?」
「なんでもありませ……いえ、大きな湖があるんです」
裏庭がじめじめしているのは、湖があるからだったようだ。
「湖にハンカチが落ちていたら大変ですわ。これ以上飛ばされないうちに、早く探しに行きましょう」
「はー……い」
明らかに様子がおかしいローザと共に、裏庭を散策すること三十分ほど。ついに、木に引っかかった白い布を発見した。
「ローザさん、ご覧になってくださいませ。あちらの木に何か布が引っかかっております」
「本当ですね!」
ローザは走って近づき、木に登ってハンカチを手にした。
「ドーサ夫人、侯爵夫人のハンカチで間違いありません!」
「そうでしたか。よかったです」
ホッとしたのも束の間のこと。
ローザの背後に湖が見えて、ぎょっとしてしまった。
湖には霧が浮かんでいて、なんだか恐ろしい雰囲気を醸し出していたのだ。
「ドーサ夫人、どうかしたのですか?」
「い、いえ、湖が見えたものですから」
「あ! ひゃあ!」
ローザは私に抱きつき、湖に人影があったと叫んだ。
「え、どちらに?」
「湖にさしかかった木に隠れていました!! イルマお嬢様の怨霊です!! 間違いありません!!」
「ローザさん、あれは蜘蛛の巣ですわ」
「く、蜘蛛の巣?」
「ええ、間違いありません」
たしかに、パッと見たら人の形に見えるかもしれない。
確認したローザは、バツの悪そうな表情を浮かべている。
「あの、ローザさん、ひとつ聞きたいのですが。もしかしてここは、イルマさんが亡くなったという湖なのですか?」
「あー、えーっと」
彼女の目の泳ぎっぷりを見ていたら、間違いがないと確信してしまった。