お父様にお願い
忘れもしない、聖暦千八百八十年、睦ノ月の第二週、火食鳥の曜日にあった出来事。
それは早朝、庭で飼育していた鶏が鶏舎で大暴れし、卵の回収ができなかったのだ。
生まれて初めて、朝食に卵料理が並ばなかった日の話である。
もしも本当に時間が巻き戻っているのならば、今日の食卓に卵料理が並ばないはずだ。
ドキドキしながら食堂へ向かう。
食卓に目を向けると――ドクンと胸が高鳴る。広いテーブルには、普段なら必ずあるはずのゆで卵がなかった。
私の探るような視線に気づいたからか、執事が申し訳なさそうに言った。
「グラシエラお嬢様、申し訳ありません。今朝方鶏舎で鶏が暴れたようで卵が回収できず……」
やはり、私の人生は時間が巻き戻っているようだ。
落ち着かない心のまま、朝食を食べる。
オレンジ一切れで、胸がいっぱいになってしまった。
◇◇◇
私には時間がない。不幸な未来を回避するため、一刻も早く行動に移そう。
まずはメンドーサ公爵家の地位と財産について、先手を打たなければならない。
現在、メンドーサ公爵家の執務は私に一任されている。けれども、権利関係は父を通さないとどうにもならない。
父は容態が安定していると言っても、一日中寝台で臥せっているような状況だ。
油断はできない病状である。
父との話し合いは後回しにしないほうがいい。
今日はいつになく調子がいいと執事から聞いていたので、父と話すことに決めた。
「お父様、今日は顔色がよろしいですわね」
「ああ、そうだな。完治も近いかも知れない」
「ええ」
起き上がる気力はないようだが、話をする元気はあるらしい。
時間が巻き戻る前の私ならば、よかったで終わらせていただろう。
この機会を逃すわけにはいかなかった。
寝台の横に置かれた椅子に座っただけなのに、父は私がただ様子を見にきたのではないと察したようだ。
「グラシエラ、今日はそのように改まって、どうしたんだ?」
「実は、お父様にいくつか〝お願い〟がございまして」
「そうか。なんでも叶えようではないか」
これまで私は父に頼み事をした覚えがない。あったとしても、一緒にお茶を飲みたいとか、フロレンシと三人でお出かけしたいとか、ささやかなものばかりだった。
そのため、父は何を頼むか聞かずに安請け合いしたのだろう。
父は厳しいところもあるけれど、いつでも家族を第一に考えてくれる。
そんな父が生きていたら、悪夢のような日々は過ごさずに済んだのに。
どれだけ嘆いても、病は父の体を確実に蝕む。
何もかも奪われる前に、私は大切なものを守らなければならない。
背筋をピンと伸ばし、居住まいを正す。
息を大きく吸って吐き――父にお願いをした。
「フロレンシが成人するまで、メンドーサ公爵家の地位や財産を凍結し、国王陛下に預けるようにしていただけますか?」
現在、父は執務に就けていない。すべて私が公爵家を掌握し、決裁などを処理しているのだ。
それらの業務は私が婚約者であるアントニーと結婚したあとは、彼が取り仕切る予定だった。
時間が巻き戻る前、父が亡きあと公爵家は叔父ガエルに乗っ取られ、アントニーは従妹のソニアと関係を持ち、私を裏切る。
それらの不幸を引き寄せたのは、メンドーサ公爵家の地位と財産なのだ。
ひとまず、それらを国王陛下に預け、彼らが悪用できないようにしたい。
今、それらを凍結したら、父も公爵位を手放すことになる。
耳に痛い話だろうが、なんとしてでも叶えてもらいたい。
父は目を見張り、理解できないという表情で私を見つめていた。
「公爵家の財産を凍結するとなれば、これまで通りの暮らしは難しくなるだろう。その辺はどのようにしようと考えている?」
「しばらくはお父様がくださった、生前贈与を切り崩して暮らすつもりですわ」
父は何かあったときのために、と数年遊んで暮らせるほどの財産を残してくれている。これは私個人のお金で、メンドーサ公爵家の財産が凍結となっても、取り上げられることはないだろう。
ふと、思い出す。この生前贈与金も、時間が巻き戻る前は葬儀代と傾いた公爵家を立て直すためのだと言って叔父に奪われてしまったのだ。
葬儀代はそんなにかからないし、公爵家はそもそも傾いていなかった。父の死を前に、私の判断能力は鈍っていたのだろう。今度はそんな過ちなんて犯しはしない。
ちなみに、フロレンシの教育費も彼個人の資産として確保されている。いい教師をつけ、後継者教育をするために、知識と教養を叩き込まなければならないだろう。
「フロレンシがある程度育ってきたら、侍女や家庭教師などをして、身を立てるつもりです」
「グラシエラ、そもそもどうしてそのようなことを願うのだ?」
「これから先、公爵代理としてわたくしが在り続けるには、無理がございまして」
「それならば、アントニーとの結婚は早めたらいい」
アントニーの希望で、父の容態が今以上に回復したら結婚しようと話し合っていた。
今振り返ってみたら、それで結婚を先延ばしにするというのもおかしい。
少しでも早く結婚して、手と手を取り合って公爵家を支えていかなければならない状況だというのに。
もしかしたらアントニーは、父が亡くなるのを待っていたのかもしれない。
「お父様、アントニーとの婚約も、解消したく思っております」
「それはできない。彼は私がグラシエラの夫にするため、知識を叩き込んでいた男だというのに!」
首を横に振り、彼との結婚は無理だと告げる。
「公爵家の地位と財産を凍結するならば、彼と結婚する意味はなくなってしまいます」
「しかし、アントニーはお前を心から愛していると言っていた」
「貴族の結婚に愛なんてあるわけがありませんわ」
あったとしても、アントニーが愛しているのはメンドーサ公爵の娘である世間知らずの私。自信を持って言えるのだが、何も持たない私なんて、彼は見向きもしないだろう。
「では一度、アントニーに手紙で聞いてみてくださいませ。メンドーサ公爵家の地位と財産の凍結の報告と共に」
「それに関しても、そこまでする必要があるのだろうか? もしも仕事を続けることが難しいのであれば、弟……お前の叔父であるガエルに手伝うように頼むのだが」
「なりません。仮に、叔父様に公爵家を乗っ取られたら、どうなさるおつもりですか?」
「グラシエラ、ガエルはそのような男ではない。いつだって気のいい、優しい叔父だろう?」
叔父は父の前ではいい弟を演じ、害のない男として振る舞っているのだ。
その実態は、メンドーサ公爵家の地位と財産を虎視眈々と狙う悪人である。
父はメンドーサ公爵家の継承者として、恵まれた環境で生きてきた。
予備として育てられた叔父の苦しみや憎しみなんて、理解できないのだろう。
もちろん、それらを父に訴えるつもりなんてなかった。
ここでは父の情に訴える作戦に出る。
これまで一度も瞬きしていなかった瞼を、パチパチと瞬かせる。
すると、ポロリと涙が零れた。
「お父様はわたくしよりも、叔父様を信じるのですね」
上手い具合に涙が零れてくれた。
父はわかりやすいくらい、オロオロと動揺して見せる。
「わたくしはお父様とフロレンシ以外、誰ひとりとして信じておりません。そんな状況でお父様は病に臥せって不安に思う中で、細腕で守ってきたメンドーサ公爵家を誰かに奪われてしまうのではないかと心配で心配で」
「ああ、ああ、そうだな。これまでお前はよく頑張ってきた。私がふがいないばかりに、申し訳なかった」
「いいえ、お父様は悪くありませんわ!」
そろそろ涙が途切れてしまいそうなので、顔を両手で覆って肩を振るわせる。
「わかった! すべて、お前のしたいようにするから!」
「お父様、本当ですか!?」
「ああ、嘘は言わない!!」
もう一つ、私は父に頼みこんだ。
「国王陛下のお墨付きを、いただきたく存じます」
それは叔父がメンドーサ公爵家を乗っ取るさいに、私に宣言したものである。
今度はそれを、私が手にしておきたい。
「国王陛下には、しっかり頼んでおくから」
「お父様、ありがとうございます」
涙を拭う振りをしてから父に抱きつく。
これで、メンドーサ公爵家の地位と財産は守ることができそうだ。




