侯爵夫人の言い分
侯爵夫人のもとへ戻り、マントイフェル卿が帰ったという旨を報告する。
「彼、大人しく帰ったのね」
「ええ、まあ……はい」
あれを大人しく帰った、と認めていいのか迷ったものの、しつこく絡んでくることはなかったので頷いておいた。
「リオンがごめんなさいね。あの子が他人に興味を示すことは初めてだったから、強く止めることができなかったの」
十分強く止めてもらったような気がしていたものの、あれで手加減していたつもりだったらしい。
「嫌な気持ちになったでしょう?」
彼に対しなんと言葉で表していいものかわからず、曖昧な笑みを浮かべてしまった。
それにしても、侯爵夫人の前でああいう態度を取るのは初めてだったとは。
てっきり、女性に対して見境なく口説いているものだと思い込んでいた。
「でも、驚いたわ。あなたが既婚者だとわかっているのに、あんなふうに言い寄るなんて」
なんでも侯爵夫人は、マントイフェル卿が女性に興味がないのでは? という疑惑を抱いていたと言う。
「彼、今年で二十六歳だったかしら? そろそろ結婚したほうがいいと思って、何回かここに女性を招待したことがあったの」
名家のご令嬢の中でも容姿端麗な女性ばかりだったようだが、先客がいるならば、とすぐに回れ右をして帰っていたようだ。
「リオンのお見合い相手よ、と言っても、欠片も興味を示さなかったの」
侯爵夫人がここまで面倒を見るということは、ふたりの関係はただのお茶飲み友達ではないのかもしれない。
結婚相手を見繕うなんて、よほどのことがない限りやらないだろうから。
おそらく何らかの強い繋がりがあるのだ。
「あの子は身分はしっかりしているし、ゴッドローブ殿下から仕事っぷりを認められ、若くして近衛隊長に昇進するほど根は真面目なの。さっきの言動を見ていたら、信じられないかもしれないけれど」
マントイフェル卿が真剣な様子で騎士の任務についているところなど、今のところ想像できなかった。
「もしもあなたが、ヴルカーノにいる夫と離婚して、再婚を望むのならば、相手はあの子がいいのでは? と思ってしまったのよ」
「あ――そう、だったのですね」
侯爵夫人は私が離婚をしたいと言えば、ヴルカーノに人を派遣することも考えていたらしい。
「でもあなたが捨てられた猫みたいな目で私を見るから、あの場で提案できなかったわ」
マントイフェル卿だけでなく、侯爵夫人にまで猫に見えていたとは……。
なんとも複雑な気持ちになる。
「侯爵夫人はどうしてそこまで考えてくださったのですか?」
「この年まで生きていると、ある程度目と目が合っただけで、どんな人間かわかるようになるの。あなたの瞳には誠実さが滲んでいたから、リオンを任せられる女性だと思ったのよ。でも、あなたの頑固さまでは見抜けなかったわ」
「も、申し訳ありません」
「謝らないで。おかげで、あなたの人となりと決意を知ることができたから、リオンがやってきてよかったわ」
侯爵夫人は顔を背け、「しっかり働くのよ」と言った。
ぶっきらぼうな態度だが、どこか温もりを感じるような言葉だった。
私は深々と頭を下げ、「誠心誠意お仕えします」と答えたのだった。
◇◇◇
フロレンシは侯爵夫人がいるコンサバトリーに連れてくるように命じられた。
なんでも侯爵夫人が使っているテーブルで勉強してもいいらしい。
「あの、本当によろしいのでしょうか?」
「別にいいわ。この屋敷には人が少ないから、私が見ているしかないじゃない」
迷惑でしかないのでは、と思ったものの、「命令よ。子どもを連れてきなさい」と言われてしまう。
侯爵夫人の邪魔にならないよう、フロレンシに対して噛んで含めるように説明したあと、本邸へと連れて行く。
フロレンシは両手に教材を抱えた状態で、侯爵夫人へと挨拶した。
「侯爵夫人、こんにちは。僕の名前はレンです。どうぞ、よろしくお願いします」
ペコリ、と頭を下げたら参考書を床に落としてしまう。
「わー!」
フロレンシとふたりでかき集めていたら、「ふふ」という笑い声が聞こえた。
常にしかめっ面だった侯爵夫人が笑っていたのだ。
信じがたいものを見る目で眺めていたら、「早く拾いなさい」と怒られてしまった。
本を広げて勉強し始めるフロレンシを、侯爵夫人は優しげな瞳で見つめていた。
フロレンシは萎縮している様子はないので、そこまで心配はいらないだろう。
続いて、ガッちゃんを紹介しておこう。
「侯爵夫人、こちらが私と契約しております、蜘蛛妖精のガラトーナです」
蜘蛛の妖精だと聞いて怖がるかと思っていたものの、侯爵夫人は興味津々な様子で覗き込む。
「……」
『ニャ!』
ガッちゃんは侯爵夫人と目が合うと、長い足でスカートを摘まむような動作をしながら、優雅に挨拶していた。
「この、白い綿みたいな塊が妖精なの?」
「ええ、そうなんです」
「そう。蜘蛛って言っても、あんがいかわいらしいのね」
「ありがとうございます」
無事、ガッちゃんも怖がられずに受け入れられたので、深く安堵した。
ひとまず、ガッちゃんには引き続き、フロレンシの傍にいてもらう。
見えない糸で私とガッちゃんの繋がりを作り、何かあったら知らせてもらうように頼んでおいた。
「では、しばし屋敷の見回りをしてまいります」
「ええ。疲れないように、ほどほどにやりなさい」
「かしこまりました」
深々と頭を下げ、コンサバトリーをあとにする。
まずは厨房に向かった。
なんだかいい匂いが漂ってくる。
朝にはいなかった料理人がやってきて、侯爵夫人の昼食を作っているようだった。
覗き込むと、髭をたくわえた五十代前後の白衣をまとった男性がパンを捏ねていた。
「こんにちは」
「おお、びっくりした。ご夫人、こんなところでどうしたんだ?」
「わたくし、侯爵夫人の傍付きとなりました、ララ・ドーサと申します」
「おー、そうかそうか」
小麦粉まみれの手が差しだされたので、苦笑しつつ握り返す。手が真っ白になってしまった。
「おっとすまない。手を洗わないとな、互いに」
「そ、そうですね」
彼はトニー。朗らかで気のいい料理人みたいだ。
なんとか上手くやれそうなので、ホッと胸をなで下ろす。
他の使用人とも、なんとか挨拶を交わすことに成功した。
従僕のロイドは落ち着いたクールな人物で、必要最低限の会話しか交わせなかった。
逆にメイドのローザはお喋りで、私が止めなければ一生会話を続けていただろう。
なんとか使用人全員と言葉を交わすことができた。
そのあとは侯爵夫人の許可を得て、部屋の備品を見て回る。
驚いたことに化粧品はほとんどなく、入浴剤や香油などの、貴族の夫人にとって必要な品が置かれていなかったのだ。
理由を聞いたところ、「この年だから、そういうのはいらないのよ」という答えが返ってくる。
「いいえ、そういったお品は、必要ですわ!」
美しく着飾り、化粧をすると自然と背筋がピンと伸びるし、お風呂に入って自分自身を労ることはとても大切なことだ。
そう訴えると、侯爵夫人は「あなたに任せるわ」と言ってくれた。
そんなわけで、私は勤務一日目から大量の注文を商人に託したのだった。




