軽薄な男
「ビネンメーアには妖精や精霊があまりいない、と聞いているので信じがたい話かもしれませんが、わたくしは蜘蛛妖精と契約しておりまして、息子の身に何かあったら知らせるように命じております」
「そうだったんだ。よかった」
それは嘘偽りがない言葉のように思える。
マントイフェル卿は見ず知らずのレンを、心から心配しているようだった。
「そうか、独りでいるんだ。昼間、学院に通わせることは考えていないの?」
「今のところは。今はわたくしが作った課題をやるように言っております」
「課題! 君、そういうのが作れるんだ。博識なんだね」
「いえ、参考書を見ながら作ったものですので」
「謙遜しないで。学ぶよりも、誰かに教えることのほうが難しいんだよ」
ただそれも、いつか限界が訪れるだろう。
「ここでの暮らしが安定してきたら、メイドや教師を雇うつもりです」
「そこまで考えていたんだね」
しばらくは父が遺してくれた財産があるので、それでどうにかするつもりである。
それが尽きてしまったら、そのときはまた考えよう。
今は私達親子を受け入れてくれた侯爵夫人へ、恩返しをしなければならないから。
私に何ができるのか。
侍女や家庭教師など、女性が就ける仕事は多々あれど、たいていは紹介状がないと就職は難しい。
子ども連れで住み込みという条件なんて、めったにないだろう。
未来について考えると、胸の鼓動が大きくなる。
これまで父に依存して暮らしてきたのだが、これからは私がフロレンシを庇護し、責任ある大人として導いてあげないといけない。
なりふりなんて構っていられないのだ。
生きるための最終手段――誰かの愛人になったり、春を売ったりする手段について考えるのはあとにしよう。
「なるほど、そういうわけだったんだ。でも、子どもが傍にいなかったら、心配じゃない?」
「それはそうですけれど」
「だったらさ、侯爵夫人、彼女の息子を屋敷に置く許可をもらえないかな?」
これまで静かに話を聞いていた侯爵夫人だったが、マントイフェル卿の提案に頷いてくれた。
「ええ、連れてきなさい。いくら妖精がついているとはいえ、絶対に安全とは言えないから」
「侯爵夫人……ありがとうございます」
ここでマントイフェル卿が立ち上がる。そろそろ帰るようだ。
「じゃあ、侯爵夫人。また来るから」
「別に、もう来なくてもいいわ」
「そんなことを言って、僕が来なければ寂しがるくせに!」
侯爵夫人は服の埃を払うように、マントイフェル卿に手を振る。
すると、にっこり微笑みつつ、優雅な会釈をし、踵を返したのだった。
侯爵夫人は去りゆくマントイフェル卿を、目を眇めて眺めつつ私に声をかけた。
「ララ、リオンのお見送りをお願い」
「は、はい!」
どうやら本当に、私にお試し期間のチャンスをくれるようだ。
先を歩くマントイフェル卿を追いかけ、玄関へと誘う。
あとは会釈をして見送るばかりだったのに、マントイフェル卿は思いがけないことを言ってきたのだ。
「ねえ、君のこと、ララって呼んでもいい?」
「呼び方はドーサ夫人でお願いします」
「僕のことはリオンって呼び捨てでいいからさ」
「マントイフェル卿、とっても困ります」
私が嫌がる素振りを見せると、よりいっそう笑みを深めた。
「ララってかわいいよね」
この人はいったい何を言っているのか。
返答に困るような発言をしないでほしい。
「既婚女性に、そのような物言いはどうかと思います」
おじけづいたらあっという間に距離を詰めてくるだろう。
キッと睨むようにマントイフェル卿を見つめ、しっかり拒絶しておく。
「そういうふうに警戒している様子が、猫みたい」
怒りと羞恥心が入り交じった複雑すぎる感情が、一気にカーッとこみ上げてきた。
感情に支配されたまま、言葉を返したら、マントイフェル卿を余計に喜ばせてしまうに違いない。
「母猫なんだって知ったら、余計に愛おしくなっちゃったよね。ララ、知ってる? 子育て中の猫は、少し凶暴になるんだ」
やはり、マントイフェル卿にとって私は、捨てられた猫のように見えていたのだろう。
そのように思われるのは、とてつもない屈辱である。
「君に酷いことをする男の気が知れないな」
「マントイフェル卿、お引き取りくださいませ」
「リオンって呼んだら、さくっと帰るよ」
ずんずん歩いて彼を追い越し、玄関の扉を開く。
冷たい風がヒューヒューと吹き込む中、私は頭を下げ続けた。
「わかった、帰るから」
最後にマントイフェル卿は私の肩に触れ、耳元で囁く。
「からかってごめんね」
殊勝な一言であったが、自覚があるだけたちが悪い。
「じゃあ、またね」
その言葉に返事はしなかった。
もう二度と会いたくないが、彼は侯爵夫人のお茶飲み友達だ。すぐに、顔を合わせることになるだろう。
マントイフェル卿が出て行ったのを確認するや否や、勢いよく扉を閉めて施錠する。
肩で息をしながら、強力な悪魔を追い払った気分を味わってしまった。
以上が私とリオン・フォン・マントイフェルとの出会いである。
彼を巡る争いに巻き込まれるとは、このときは夢にも思っていないのだった。