侯爵夫人のお茶飲み友達
年頃は二十代半ばから後半くらいか。
紺色の騎士服に、赤いマントをなびかせ、不思議そうな視線を私に送っている。
ただその場に佇んでいるだけなのに、とてつもない華がある男性だ。博物館ですばらしい芸術を前にしたときのように、彼の姿に見とれてしまう。
けれども目と目が触れ合った瞬間に、ハッと我に返る。
来客ならば、私が出迎えて侯爵夫人に取り次がなければならなかったのに。
彼と対面する位置に立っていたので脇に避けようとしたら、ずんずんと目の前に接近してきた。
想定外の動きに、警戒心が最大限まで跳ね上がる。
もしかしたら不審者かもしれない。侯爵夫人に近づけさせまいと、間に立って制した。
どきん、どきんと胸が脈打つ中で、彼は思いがけない発言をする。
「うわあ、きれいな女性がいる!」
とんでもない美貌が眼前に迫った。
好奇心旺盛な瞳で覗き込まれ、思わず仰け反らせる。
初対面の相手に許されるような距離感ではなかったので、体を押し返そうとした。
しかしながら、視界の端っこにシャランと音を立てる勲章や階級章を捉えてしまう。
おそらく彼は、騎士の中でも地位の高い官職に身を置く者に違いない。
立場が弱い私が強い態度に出ていい相手ではなかった。
一刻も早く、彼の前から逃げないといけない。
そう思って身を引こうとしたのに、腕と腰を取られてしまう。
「逃げないで。よく顔を見せて」
「なっ――!?」
今度こそ、体を押し返そうとしたのと同時に、凜とした声がコンサバトリーに響いた。
「リオン・フォン・マントイフェル! あなたは朝から何をしているの!?」
侯爵夫人が立ち上がり、キリリとした目で注意する。
リオン・フォン・マントイフェル――彼はレイシェルが話していた、侯爵夫人唯一のお茶飲み友達だ。
たしかビネンメーア王の弟君、ゴットローブ殿下の近衛騎士で、怪しい人物ではない、と言っていたような。
「彼女はレイシェルが連れてきた女性なの。その手を離しなさい」
彼――マントイフェル卿はパッと手を放した。
私は脱兎のごとくマントイフェル卿から離れ、侯爵夫人の背後に回った。
「侯爵夫人、酷いな。まるで僕が不審者みたいじゃないか」
「初対面の女性に急接近し、顔をまじまじ見る男性は間違いなく不審者よ!」
マントイフェル卿をきっぱり不審者扱いする侯爵夫人の物言いに、笑いそうになってしまった。口元を隠し、なんとか耐える。
「美しい女性に挨拶するのは礼儀だよ」
「あれは挨拶なんかではなくて、口説いていると言うのよ」
「あはは」
口説いていると指摘された部分はしっかり否定してほしかった。
「あなたは彼女の結い上げている髪が見えなかったの?」
「結い上げている髪……? ああ、既婚者ってこと?」
「ええ。独身を相手に口説くならばまだしも、人妻に興味を示す男性はとんでもない害悪だわ」
「酷い言われようだ」
「あなたはそれだけのことをしたからよ」
なんというか、マントイフェル卿は想定していた男性ではなかった。
侯爵夫人と交流している唯一の人物だと聞いて、勝手に真面目で清廉潔白な男性だと思っていたのだ。
レイシェルが「怪しい人物ではないわ。たぶん」と言っていた意味を正しく理解した。
マントイフェル卿は初対面の既婚女性を口説く、軽薄な男性だったのだ。
「まあまあ、立ち話もなんだから、一緒にお茶でも飲みながら話そうよ」
「あなたという子は……!」
顔を真っ赤にさせて怒っていた侯爵夫人だったが、マントイフェル卿になだめられ、着席させられていた。
私もどうぞとばかりに、椅子が引かれる。
「いえ、わたくしは――」
「いいからいいから」
マントイフェル卿は流れるように私の手を掬い、ごくごく自然な動作で椅子に座るように誘った。
すとん、と腰を下ろした瞬間、対面する位置に座っていた侯爵夫人と目が合ってしまう。
立ち上がろうとしたのに、マントイフェル卿は私の左右の肩を押して妨害してくれた。
「どうせまた、まずい紅茶を飲んでいるんでしょう?」
マントイフェル卿はそう言って、残っていた紅茶を勝手に注いで飲む。
「うわ、とてつもなく苦い!」
「朝は苦い紅茶が定番なんです」
「度を超えているよ」
マントイフェル卿は苦笑しつつ、茶器に手をかけた。
慣れた手つきで紅茶を淹れようとしていた。
「あの、わたくしがやります」
「大丈夫」
マントイフェル卿はにっこりと微笑みながら言っていたが、言葉に従えと言わんばかりの圧を感じてしまった。
笑顔で人の行動を制する男性なんて、彼が初めてである。
抗えずに、私は銅像のように固まったまま、紅茶が淹れられる様子を傍観することとなった。
「さあ、どうぞ」
マントイフェル卿は手ずから淹れた紅茶を私に差しだした。
ちらりと侯爵夫人のほうを見たら、早く飲みなさい、と目で訴えているような気がした。
先に飲むのは忍びないものの、これは毒見だ、と自らに言い聞かせて一口飲んだ。
「あ――おいしい!」
茶葉の芳醇な香りと、ほんのり感じる渋みにスッキリとした後味。
熟練の執事が淹れたような、極上の一杯である。
マントイフェル卿は紅茶を淹れるのが、とても上手いようだ。
侯爵夫人も穏やかな表情で、彼が淹れた紅茶を飲んでいた。
ここで、マントイフェル卿が唯一お茶飲み友達として許されていた理由を理解してしまった。
ほっこりするような時間はあまり続かなかった。
紅茶を味わった侯爵夫人の眉間には、皺が戻ってきている。
居心地悪い空間と化した中で、マントイフェル卿は明るく侯爵夫人に話しかけた。
「それで、そろそろこちらの美しい女性を教えてもらいたいんだけれど」
侯爵夫人は盛大なため息を吐いたあと、しぶしぶといった様子で私を紹介した。
「彼女はララ・ドーサ――さっきも言ったけれど、レイシェルが連れてきた、お客様よ」
「へえ、ララっていう名前なんだ。とってもかわいいね!」
手を取られそうになったが、瞬時に回避する。
避けられるとは思わなかったのか、マントイフェル卿はポカンとした表情を浮かべていたものの、次の瞬間には楽しげに微笑んでいた。
「でも、ここまでの立ち入りを許すなんて、珍しいね。いつもは杖を振り回して追い出すのに」
過激な侯爵夫人の抵抗を聞き、内心「ヒッ!」と悲鳴をあげてしまう。
それと同時に、独りで暮らすために、強く在る必要があったのだろうな、と思ってしまった。
「彼女の事情を聞いたら、追い返すわけにはいかなかったのよ」
「事情って?」
他人の醜聞に興味がおありなのか、マントイフェル卿は瞳を輝かせながら聞いてくる。
侯爵夫人は話してもいいか伺うように、こちらを見てきた。
私が夫の暴力と借金から逃げるためにヴルカーノからやってきたと聞いたら、興味なんて失せるだろう。
大丈夫だ、と伝えるために頷いた。
「――というわけで、レイシェルは彼女を私の傍付きとして置いておきたいみたいなんだけれど、今のところ必要ないって言っていたところよ」
離れに住むだけならば問題ない、と言ってくれたものの、何もしないで居座るつもりはなかった。
いったいどうすればいいものか。
侯爵夫人の様子を見る限り、独りで大丈夫だとは言い難い。
私みたいな者でも、傍にいたらレイシェルやご家族も安心だろう。
侯爵夫人が私を取り巻いている状況について伝えると、マントイフェル卿は私に憐憫の目を向けながら言った。
「なんて気の毒な女性なんだ!」
今度は素早い手つきで私の手を取ると、信じがたい提案をしてきた。
「侯爵夫人が必要としないのであれば、僕の家に住めばいいよ」