コンサバトリーにて
馬車はだんだんと海から遠ざかり、深い木々に囲まれた森の中を走る。
「お祖母様の屋敷は、王都に立ち寄ってからのほうがよかったかしら?」
「いいえ、このまま向かっても問題ありません」
ビネンメーアの王都は港町の数倍活気があって賑やかなようで、静かに過ごしたい私やフロレンシにとって、郊外にある侯爵夫人の屋敷はありがたかった。
港町から馬車で揺られること二時間――侯爵邸に到着した。
屋敷は森の中にあり、都会の喧噪を忘れさせてくれるような、自然豊かな場所だ。
馬車は屋敷の玄関前まで入れるほど広い。これだけの規模の屋敷は、堂々たる住まい以外で目にしたことなどなかった。
フロレンシと二時間ぶりの再会を果たす。楽しい時間を過ごしていたようで、上機嫌だった。
「レン、侯爵夫人の前では、いい子でいるのですよ」
「はい、わかりました」
心配いらないだろうが、念のために言っておく。
レイシェルの従僕が扉を開いたが、出迎えにやってくる使用人はいない。どうやらいつものことらしい。
皆、振り分けられた仕事をするのに精一杯で、来客に備える余裕がないようだ。
「そもそもお祖母様はお客さんがやってくるのを歓迎していらっしゃらないから、普段から誰かやってきても放っておくように言っているの」
「施錠もしていないで、大丈夫ですの? 悪い人が押しかけたら、どうするつもりなのでしょう?」
「私も指摘したことがあるのだけれど、そういう事態になれば運命を受け入れるとおっしゃっていたわ」
「まあ!」
まるで人生に希望も何もないような物言いである。
愛する孫娘を亡くした結果、そのように自暴自棄な考えになってしまったのだろうか。
「お祖父様にも相談したけれど、お祖母様の言うとおりにしなさい、って諭されてしまったわ。だから、言うとおりにしていたのだけれど、ずっと心配で」
一時期はレイシェルが同居することも考えたようだが、拒否されてしまったと言う。
「もうすぐ結婚する身で、花嫁修業もせずに老人と暮らすなんて、と非難されたの。イルマはずっと一緒に暮らしていたのに、酷い話よね」
おそらく侯爵夫人は、誰かと共同生活をする気力なんてないのだろう。
厳しいことを言って突き放しているように聞こえるが、実際はレイシェルに迷惑をかけないように言ったのかもしれない。
「お祖母様は今の季節はたいてい、屋敷内温室にいらっしゃるの。こっちよ」
使用人と一度もすれ違わない、静寂に包まれた屋敷の中を進んでいく。
行き着いた先は屋敷の南側に造られている、太陽光がやわらかく差し込むガラス張りの部屋だ。
コンサバトリーでは、南国の果物や花々が育てられているらしい。
コンサバトリーも施錠はされていないようで、侍女がドアノブを捻っただけで開いた。
内部は花や木々の香りが漂い、さわやかな空間である。
美しいガラスは丁寧に手入れをされているからか、曇りのひとつもない。
「コンサバトリーだけは三日に一度、庭師を呼んで手入れをさせているみたい」
「そうだったのですね。とても美しいです」
天井はドーム型になっており、中は太陽光を浴びて暖かだ。
肌寒い季節にはうってつけの場所なのだろう。
しばらく歩いた先に、人の姿を発見する。
椅子に腰かけた、背中がピンと伸びた優雅な貴婦人――侯爵夫人だろう。
レイシェルが声をかける。
「お祖母様、レイシェルよ。久しぶりね」
話しかけても、侯爵夫人は振り返るどころか返事すらしない。
彼女の人嫌いは思っていた以上に深刻なようだ。
「手紙で知らせた傍付きの女性を連れてきたの」
そう言うやいなや、侯爵夫人は私達を振り返る。
白髪を美しくまとめ、刻まれた皺と目付きに厳しさを感じる女性は、睨むように私へ視線を向けた。
「お祖母様、こちらはヴルカーノからやってきた、ララ・ドーサさん」
なるべく優雅に見えるよう、丁寧に膝を折った。
ピリッとした空気に震えてしまう。私に対する敵対心のようなものもヒシヒシと感じてしまった。
「あなたへ送った手紙にも書いたけれど、傍付きなんて必要な――」
侯爵夫人はフロレンシに気付いたようで、ハッと驚いた表情を浮かべる。
「その子どもはなんなの?」
「ララさんの息子よ。レン君って言うの」
フロレンシは礼儀のお手本のような完璧な会釈を披露する。
「子連れでビネンメーアまでやってきたということは、相当なワケアリなのね」
「ええ……」
レイシェルは物憂げな様子で言葉を返す。
ここで侯爵夫人がレイシェルの侍女にフロレンシを他の部屋へ連れて行くように命じる。
フロレンシがコンサバトリーからいなくなったあと、ため息交じりで問いかけてきた。
「いったい何があって、こんなところまでやってきたと言うの?」
「それは、お祖母様のお耳に入れるのは、少々お辛いかもしれません」
「いいから言ってちょうだい」
レイシェルはそっと私の背中を叩く。自分で説明するように勧めているのだろう。
私は一歩前に出て、ここへやってきた理由について述べた。
「実は、夫が大量の借金を抱えているだけでなく、暴力をふるうようになりまして……わたくしだけならばまだしも、レンにまで酷いことをするかもしれないと考えたら、いてもたってもいられなくなり、ビネンメーアまで逃げることにしました」
そんな状況でレイシェルに出会い、助けを求めたのだと、事情を説明した。
レイシェルは侯爵夫人にグイグイと接近し、拳を握って訴える。
「お祖母様、ララさんは頼れる親戚や友人がひとりもいない上に行く当てもなく、とんでもなく気の毒な女性なの。どうか、傍に置いていただけないかしら?」
「でも、ここは……」
「お祖母様が見捨てたら、彼女は幼い息子と路頭に迷うことになるの!」
「あなたが面倒を見ればいいだけじゃない」
「うちの家は、紹介状がない使用人は雇えないのよ。お祖母様、どうかお願い!!」
レイシェルの熱い演技に、内心舌を巻く。ここまでやってくれるとは、まったくの想定外だった。
侯爵夫人も勢いに呑まれているようで、体をのけ反らせている。
ただ、表情は険しいままだった。
もしかしたら断られるかもしれない。そうなったら、レイシェルの言葉のとおり、路頭に迷うことになるだろう。
暗澹たる未来に、絶望だけが押し寄せる。
「お祖母様!!」
「……わかりました。好きになさい」
「ありがとう!!」
「あ、ありがとうございます」
侯爵夫人のもとへ近寄ろうとしたら、キッと鋭く睨まれてしまった。
「ただ、傍付きとして侍る必要はないわ。私のことは放っておいて」
思いっきり突き放すような言葉に、がっくりしてしまう。
前途は多難というわけだ。
ひとまず、ここにいてもいいと許されただけでもよしとしよう。