侯爵夫人デルマ・フォン・ファルケンハイ
潮風を帯びた風が頬を撫でる。
真冬だというのにヴルカーノより温暖な気候だからか、肌寒さはあまり感じない。
ガッちゃんは変わらず元気なようで、ホッと胸をなで下ろす。妖精族がいないというビネンメーアへの入国を心配していたのだ。
フロレンシは楽しそうに、見慣れぬ港町の雰囲気を楽しんでいた。
周囲は下船する乗客と荷下ろしを行う船員、それから商品を受け取りに来たであろう商人達でごった返していた。
フロレンシの手をしっかり握り、離れ離れにならないように努める。
そんな状況の中、レイシェルが話しかけてきた。
「雑然とした港町で、驚いたでしょう?」
「いいえ、活気があって、賑やかな港町だと思いました」
行き交う人々の瞳は輝いていて、希望に溢れている。
ヴルカーノの殺伐としていて忙しない港町とは大違いだった。
「そういうふうに言ってくれて、嬉しいわ。私、この港町が好きなの」
「わたくしも、好きになりそうです」
レイシェルは安堵したように微笑む。
迎えにやってきた使用人の案内で馬車へ乗り込み、直接レイシェルの祖母の家を目指すらしい。
フロレンシのために、ぬいぐるみやオモチャがたくさん積まれた、あまり揺れない子ども用の馬車を用意してくれたらしい。赤や黄色のかわいらしい塗装がなされており、車体も通常の馬車よりひとまわりほど小さい。
フロレンシは目にした瞬間、喜んで乗っていた。彼の面倒はメイドが見てくれるので、心配はいらないと言う。
私とレイシェルは別の馬車で行くようだ。
「お祖母様について、詳しくお話ししなければならないわね」
レイシェルの表情が暗くなる。
ここで、子ども用の馬車はフロレンシに話を聞かせないために用意したのだと気付いた。
馬車が動き始めると、レイシェルは重たい口を開く。
彼女の祖母は侯爵夫人で、名前はデルマ・フォン・ファルケンハイ。
「私の母は祖母の末娘なの。つまり、私はお祖母様にとって外孫というわけ」
人嫌いをするという侯爵夫人との仲は正直良好とは言えないらしい。
「ビネンメーアの国の人達は、内孫と外孫がいたら、内孫を特別にかわいがる傾向にあるの。だからまあ、仕方がない話なのよね」
ヴルカーノの貴族は外孫であろうが、内孫であろうが、家族に関心が薄い者が多い。祖父母にかわいがってもらった記憶がない私にとっては、驚くべき情報であった。
「お祖母様がもっともかわいがっていたのは、イルマという内孫の中で唯一の女性だったわ」
レイシェルにとっては伯父の娘で、従姉に当たる人物らしい。
「伯父様を若くして亡くしたものだから、忘れ形見でもあるイルマをお祖母様は特にかわいがっていたみたいで――」
目に入れても痛くないほど愛しただけでなく、王族に嫁がせるための特別な教育も施していたらしい。
「お姫様のように育てられたイルマは本当に美しかったし、幸せの象徴みたいな女性だったわ」
だった、という過去を示唆するような物言いが引っかかる。
彼女に何かあったのかと気になっていたら、その理由についてレイシェルは打ち明けた。
「イルマは十八歳という若さで、ある日突然、亡くなってしまったの」
三年前の霜が降りるほど寒い朝――イルマは湖に浮いた状態で発見されたらしい。
「騎士隊の調査では、足を滑らせて落ちた結果、溺れて死んでしまった事故として処理されたわ。けれども、真冬の湖に、侍女も連れずにイルマがひとりで近付くなんてありえないの。だから私は、自死を選んだのではないか、と考えているわ」
「どうして彼女はそのような選択をされたのですか?」
侯爵家の事情に首を突っ込むのはよくない。けれども、藪をつついて蛇を出すようなうっかり発言をしてしまったら大変だ。侯爵夫人にお仕えする以上、私は最低限の事情を知っておかなければならない。
「理由についてはよくわからないの。けれども彼女はとても病弱で、医者からは子どもが産めないかもしれない、って言われていたわ。結婚してもお役目が果たせないことを嘆いたのかもしれないし、そうではない、別の事態を憂いで命を絶ってしまった可能性もあるわ」
天真爛漫で心優しい気性である一方、繊細で傷つきやすく、他人の目を気にしすぎる性格の持ち主だったらしい。
「お祖母様の愛や期待も相当なものだったから、それを重たく感じた可能性もあるけれど……正直なところ、決定的な理由はよくわからないの」
イルマの死後、侯爵夫人の人嫌いは加速し、使用人も最低限の人数しか傍に置かなくなったらしい。
「屋敷にいるのは、家事を担当するメイドが数名に、従僕がひとり、あとは料理人がいるばかり」
夫である侯爵ですら、家に戻ってくるなと言う始末だったと言う。
「もともとお祖父様は愛人がいる別邸暮らしで、本邸に戻ってくるのは月に一度か二度だったので、その辺は問題なかったのだけれど」
もちろん、レイシェルがやってくることもよく思わないらしい。
そんな人物の傍に置いてもらえるのか、だんだんと不安になってくる。
使用人達は全員通いで、週に一度は誰も来ない日があると言う。
ひとりになりたいから、と宣言し、使用人の休日にしてしまったようだ。
「お祖母様は持病をお持ちで、一度薬を飲むのを忘れて、倒れていたことがあったわ」
最悪なことに、その日は使用人の休日だった。
危険な状況だったものの、侯爵夫人を訪ねる者がいたのだ。
「それが、お祖母様唯一のお茶飲み友達である、リオン・フォン・マントイフェルよ」
「えっと、彼はいったい何者ですの?」
「王弟ゴットローブ殿下の近衛騎士を務めているの。怪しい男性ではないわ。たぶん」
王族の近衛騎士と聞いて安堵するも、レイシェルが付け加えた「たぶん」という発言が引っかかる。
「彼はどういういきさつで、侯爵夫人のお茶飲み友達になれたのでしょう?」
「そうね。マントイフェル卿はなんと言うか、他人の懐に入り込むのがとっても上手なの。人懐っこい犬みたいな人物とでも表現したらいいのかしら?」
朗らかで明るく、とても賑やかな人物らしい。
「もともとはマントイフェル卿のお母様とお祖母様が、お茶飲み友達だったようなの」
けれどもマントイフェル卿の母親が亡くなってしまったので、彼が引き継ぐ流れになったらしい。
「最初はお祖母様も拒否反応を示していたようだけれど、絆されてしまったのよ」
ここで、レイシェルが私の手を握り、ぐっと接近してくる。
「お祖母様はとても頑固で、冷たく感じるかもしれないけれど、情に厚いお方なの。根気強く接していたら、きっと認められるはずだわ」
もしものときは、マントイフェル卿の言動を参考に打ち解けてほしい。
レイシェルは真剣な眼差しで私に訴えたのだった。