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祈願成就  作者: 霜月透子
ニ、進藤絵里
9/22

2−1

「影のことなんだけど」


 絵里は歩行器から椅子に移るなりそう切り出した。

 テーブルの向こうで実希子がきょとんとした顔をする。なんのことかと尋ねるわけでもなく、こちらの言葉を促すように黙って小首を傾げている。

 伝わっていないことに気づいてくれと言わんばかりの実希子の様子を見ると、奥歯の根がじわりと熱くなる。二十数年経ってもこの子は少しも変わらない。だからといって話をする前からこんな調子ではいけない。実希子を呼び出したのは自分なのだから。


 徹と共に実希子がお見舞いに来たのは一週間前のことだった。まだしばらくは退院できそうもないし、思い出したことがあるから話したい、と交換したばかりのSMSに送った。


 実希子だけに声をかけたつもりだったが、「徹は来られないって。私だけでもいい?」と返事が来た。そして何通にも分けて絵里と会おうと思う理由を述べた。

 徹も言っていたんだけど、呪いについては私もすんなりとは受け入れられない。突拍子もない話だと思う。だけど、影については知りたい。実は私も見かけたの。気のせいならそれで構わない。徹には見えないようだし、絵里ちゃんと話すしかないと思うの。純粋に懐かしい友達ともっと話したいという気持ちも大きいし。――そんなことを。


 手ぶらで来てと言ったのだが、実希子は、そういうわけにもいかない、整形外科なら食事制限もないんでしょ、とマカロンを持参した。そうして談話室に来て、自動販売機でカップの紅茶を買って、今はマカロンの箱を挟んで向かい合っている。


 実希子を呼び出しはしたものの、なにをどう話せばいいのか考えがまとまっていない。影のことなんだけど、と言ったきり黙る羽目になってしまった。マカロンをちびちびと齧って、おいしいねと呟いてみる。


 沈黙に焦れたのか、実希子が「おばさんの腰の具合はどう?」と聞いてきた。


「あんなに痛がっていた腰が、私が入院した途端に痛みがなくなったんだって。私に気を遣ってそう言っているわけじゃなくて、どうやら本当によくなったみたいなの。精神的なものからくる腰痛なんて聞いたことないけど、不思議なものよね」

「それはよかったね。親ってすごいね」

「ほんとに。母は強し、だよ」


 親という言葉を母と言い換えた。


 絵里にとっての親は母親だけだ。父親は絵里が小学生のころに失踪している。失踪の理由は本人にしかわからない。母にも失踪の理由は見当がつかないらしいが、いないにこしたことはないので探す気はなく、むしろ事を荒立てて戻ってくることを避けたかったようだ。


 当時幼かった実希子たちには、よそのうちの厳格なおじさんというくらいの認識しかなかっただろうが、家族は度を超えた厳格な態度に振り回された。

 父の帰りが遅い平日と、一日中在宅している休日では、気分も行動もかなり違うものになった。父の定めた門限が夕方五時だったため、休日に実希子たちと遊ぶことがあってもずっと時間を気にしていた。子供だったけれど――子供だったからこそ、父の決めた規則は絶対的だった。母の緊張も痛いほどに伝わってきた。


 ある時、父は大阪出張に行ったきり帰ってこなかった。先方で仕事を済ませて帰路についたところまではわかっている。その後、飛行機にも新幹線にも乗った形跡がなかったという。


 きっと母はほっとしたことだろう。けれども、父の同僚が親切心から警察に失踪の相談をしてしまった。それで母は行方不明者届出を提出せざるを得なくなった。

 だが幸いにも成人男性の失踪はそれほど重要には扱われず、父は見つからないまま月日が経ったのだった。


 ゴトン、と大きな音がした。見ると、自動販売機の前に人が立っていた。かがんでペットボトルを取り出しているところだった。


「影の話、私は信じるよ」


 実希子があまりにもはっきり言うものだから、思わず瞬きを繰り返してしまった。


 黒猫の影をよけた拍子に転倒したのは事実だが、二十数年前の猫が子猫のまま現れたという解釈まで信じるとは思わなかった。


 すると案の定、実希子は言葉を継いだ。


「ただ、それが昔いた黒猫だというのは、ちょっとわからないかな」


 それはそうだろう。絵里だって、自分の見たものに疑念を抱かずにはいられない。

 絵里は紅茶をひと口飲んでテーブルに置いた。マカロンを食べる時以外は両手で包み込んでいた紙コップからようやく手を離した。姿勢を正して実希子の目を合わせると、実希子も慌てて紙コップをテーブルに置く。


 話すなら実希子しかいない。そう思って呼び出したのだ。ほかのことであれば、実希子になど話したいとは思いもしない。でもこれだけは別だ。あのことに関わっていないのは実希子だけだから。

 影の話を信じるという実希子の言葉を信じるしかない。


 今話しておかないと、絵里の身に起きたことがまたどこかで繰り返される予感がした。


「〈影〉って名前だった」

「……え?」

「猫の名前」

「ああ、猫」

「そう、猫。真っ黒だから影。みきちゃんは覚えてる?」


 実希子はぷるぷると首を振って、かすかに笑いを含んだ声で尋ねた。


「そのセンスがあるんだかないんだかわからないような名前、誰がつけたの?」

「ドワーフよ」

「ドワーフ? 物語に出てくるあのドワーフ? そんなのいるわけないじゃない」


 この子はなにも覚えていないんだなと心の中でため息をつく。やはり話したところでどうにもならないのかもしれない。

 だけど、郁美がいなくなった今、誰かに知らせておくべきだと思った。


「本物のドワーフのはずがないじゃない。あだ名よ、あだ名」

「あだ名?」

「そう。いたでしょ、髭がもじゃもじゃのおじさん。おじいさんだったかな。雑木林の中の防空壕に住んでいて」

「防空壕は覚えてるけど」


 さすがに実希子も防空壕の横穴があったのは覚えていたようだ。絵里たちが生まれたのは戦後四十年まであと少しというころで、ドワーフと出会ったのも終戦から五十年と経っていなかった。当時は四十年前、五十年前というのは気が遠くなるような昔だと思っていたが、大人になった今、その時代がいかに戦争の時代と近かったのかわかる。祖父母は戦争の記憶も新しいようだった。


 さすがに絵里が小学生のころには戦争の気配は薄れていたが、空き地や放置された山も多く、そういうところには横穴が残っていた。大人だと腰をかがめないと入れないような洞窟から、車が入りそうなほど大きな洞窟まであった。崩れる危険があるため格子状の扉をつけているところもあった。そうかと思うと、大きい洞窟はガレージとして使われていたりもして、その扱いに特に規制はないように思えた。


 ホームレスが防空壕跡に住み着いているのは珍しいことではなかった。洞窟の入口に柱を立ててブルーシートを張ってひさしにしていたり、一斗缶で枯葉や小枝を燃やして煮炊きをしていたり。そこで生活している人はいずれも髪も髭も伸び放題で恐ろしい風貌だったが、キャンプみたいなその生活には少し憧れたりもした。大人たちの話からすると、戦後からそのまま住み続けている人もいたらしい。真偽のほどは不明だが、子供のころはその話を信じていた。


「まあ、ドワーフと接していたのは郁美だけだったかな。私も会えば挨拶ぐらいはしたけど、それって親しいからじゃなくて、警戒しているってことを悟られないように、平気で接している振りをしていた感じ。郁美以外はみんなそうだったと思うよ」

「……だめ。全然覚えていないや」

「そっかあ。覚えていない方が幸せかも。ただ、影には気を付けて」


 実希子は頷いたが、どこかおざなりに見える。それも仕方のないことだ。


 歩行器につかまりながらエレベーターホールまで実希子を見送る。乗り込んだエレベーターの中から「お大事に」と手を振る実希子に笑顔でお礼を言いながら、扉の閉まるのを見届けた。


 実希子との面会で思った以上に体力を奪われたらしく、ベッドに戻るといつの間にか眠りに落ちていた。


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