1−8
「よく怖くなかったな」
顔をしかめる徹に、絵里は「そりゃあ怖かったわよ」と言った。
「怖かったから小走りで下りて行ったの。自分の足音が聞こえると少しだけ怖さが和らいだし。そしたら、雑木林の奥からガサガサと音が近づいてくるの。そういえば奥に防空壕の跡があったなって思い出して、そこに誰かが潜んでいたのかもしれないとか、そういうことを一瞬で考えちゃって、足を早めたの。でも音が近づいてくると、それほど大きくないものが地面の近くを走っているような音なのがわかって。だから不審者とかではないなと思ってちょっと気が緩んでいたのかもしれない。……ガサッて音と一緒に影の塊みたいなものが飛び出してきたの。ちょうど私が次の一歩を踏み出すところに。なんだかわからないなりに、よけなきゃって意識が働いて、瞬間的に着地する位置を少しずらしたの。そうしたら、そこの段が緩んでいて、グラッとして……」
情景がまざまざと浮かんで、実希子は思わず音を立てて息を飲んだ。両手で口元を覆って硬直していると、徹が背中を優しく撫でてくれた。けれど息を飲んだのは、絵里の事故に驚いたためではない。絵里が〈影〉と言ったからだ。このところよく現れるあの影と関係あるのではないかと思ったのだ。
絵里は正座したような格好で十段近く落ちていったという。意識はあったものの、足を動かすと全身を突き抜けるような痛みが走り、何度も呻き声を上げたが、誰に届くわけでもない。這うようにして辺りに散らばった荷物を集め、自ら救急に連絡したそうだ。階段の上では先ほどの〈影〉がずっと佇んでいて、救急車のサイレンが近づいてきてようやく姿を消したらしい。
「大変だったな……それで、なんだったわけ? その〈影〉って」
徹の問いかけに、絵里は指を何度も縦に振った。
「そう、それよ、それ。黒猫だと思うの。これくらいの」
そう言って両手で拳大の空気を丸めた。
「そこで猫の話になるわけか」
「ただの猫じゃないわ。あれは……」
絵里は顎を上げ、全身の痛みに耐えているかのようなかすれた声で言った。
「……私たちが死なせた猫よ」
*
病院を後にして電車に乗っても、実希子と徹は言葉を交わさなかった。帰り道はわかっているし、沈黙に気を遣うほど短い付き合いでもない。
乗換駅にはまだ早いのに、「降りようか」と徹が言った。頷いて電車を降りる。
再び口を閉ざしたまま港まで歩いた。海を見渡す山下公園は親子連れやカップルで溢れていた。普段は人混みにうんざりする方なのだが、今日は心がほどけていく。
海に向いたベンチに並んで腰かける。遊覧船が汽笛を鳴らして出航していった。
徐々に小さくなっていく遊覧船を眺めつつ、実希子は口を開いた。
「あの話、どう思う?」
「猫の話? どうって、どう考えたって絵里の思い込みだろ」
徹は問いかけにすぐに応じた。興味なさそうに言ったところで、徹も内心では気にしていたのは明らかだ。徹もずっとそのことを考えていたから、猫の件を指しているとわかったのだろう。
「思い込み、ならいいんだけど」
「死んだ猫が現れたって? 二十数年ぶりに? 生きていた猫だって二十年も経てばあの世に行っているよ。飼い猫とはわけが違う」
「猫にもあの世ってあるのかしら」
「知らないよ。そこ突っ込むかなあ」
徹が困ったように笑うから、実希子も軽く笑顔を浮かべる。
絵里は雑木林から出てきた影は黒猫だったと言っている。しかも小学生のころに秘密基地で飼っていた黒猫だと。郁美が拾ってきた野良猫の子。生まれたてで、目も開かないほど小さな子。それとも、もう目が見える時期にもかかわらず、なにかに感染していて目やにがひどかったのだろうか。それで瞼が動かなかったのだろうか。大人になった今でもその区別がつく自信はない。
だけど、あの猫は死んでいるのだ。五人で見たではないか。徹がそう指摘すると、そのことは絵里も覚えていた。事実を認めた上で、同じ猫だと言ったのだ。
「変な話だって、自分でもわかってる。でもどうしても頭から離れなくて。だけど誰に話せばいいのかわからなくて。転倒した時に頭でも打っておかしなことを言ってるって思われるのがオチだもの」絵里は真剣な顔をしてそう言った。
罪悪感なのだろう。絵里は、自分たちがあの猫を死なせたと思っている。育て方などわからなかったという意味では、たしかに死なせたのは自分たちかもしれない。動物病院に連れていて適切な処置をして、誰かの家で飼っていれば、あるいは死なずに済んだのかもしれない。
厳しい見方をすれば、無知は罪かもしれない。ひとつの命を救えなかったという罪。だけどそれで『死なせた』とするのは思い詰めすぎではないか。
けれども同じ言葉を聞いても徹は違う解釈をしていた。
「絵里はさ、あの時の黒猫を誰かが殺したと思っているんじゃないかな」
「え? 私たちの中の誰かがってこと?」
「うん。あ……いや、わからないけど、『死なせた猫』って言い方が引っかかるんだよな」
「放課後に秘密基地に行った時にはもう死後硬直していたじゃない。誰も猫の最期を見ていないはずよ」
「だよなあ。前日だってみんな一緒に帰っているんだし」
前日は特に弱っている様子はなかったのだ。だからみんななにも気にせず、いつも通り猫を残して帰ったのだ。思うに、あの猫は生まれつき身体が弱いか、病気になっていたのだ。だから母猫は世話をやめたのではないだろうか。寿命だったのだと思う。
「それなのに」と、徹が言いかけて言葉を切った。
言い淀んだまま口をつぐんでいるから、先を実希子が引き取る。
「絵里は誰かが殺したから呪われたと思っているわよね」
徹が頷く。
「呪いなんて言葉、絵里の口から出るとは思わなかったな」
「そうね。そういうの信じないタイプかと思ってた」
「だよな。郁美ならともかく」
郁美なら――そういえば、圭吾の口からも〈呪い〉という言葉が出た。普段の暮らしの中でそんな言葉を耳にする機会など多くない。子供ならまだしも、三十代の大人が真面目に口にする単語ではない。それなのに最近になって二度も聞くことになろうとは。
「あー! カモメー!」
小学校低学年くらいの男の子が、繋いていた母親の手を離して海に向かって駆けていく。母親は慌てて追いかけ、柵の手前で背中から抱き締めた。
海上の風に乗るカモメはキューキュー鳴いて、次々に氷川丸を係留している鎖にとまっていく。一羽残らず風上を向いて、隙間なく並んでいる。
日差しは眩しく、風は穏やかで、呪いなんて言葉はこの世に存在しないように思えた。
隣からフッと空気が漏れるような笑いが聞こえた。
「まあ、あれだな。絵里は怪我をしてナーバスになっているだけだろ。きっと後から理由をつけちゃったんじゃないかな」
「絵里ちゃんの作り話ってこと?」
「いや、そこまでは言ってないよ。黒猫が飛び出してきて、それをよけたら転んだ、そういうことなんだろうな。そこに昔のことを絡めて理由付けするのは、ちょっと飛躍しすぎなんじゃないかとは思うよ。第一、呪いなんて現代社会に存在すると思うか? しかも猫が呪うってピンとこないよ」
「でもほら、動物霊とかあるし」
「あるの?」
「あ、いや……どうかな。言葉としてはあるけど、存在するかって言われると自信ない」
「だろ? そうなんだよ。結局ありもしないものに怯えているんだって」
「うん。そうかあ。そうかもね」
視線を遠くに飛ばすと、目の前の海面に黒い影が落ちるのが見えた。カモメの影かと思ったが、飛んでいるものは一羽もいなかった。魚影だろうか。川で見かける黒い鯉に似ている。だが海に鯉はいないし、そんな大きな魚が岸の近くに来るのを見たことがない。影は氷川丸の方へと泳いでいく。
鎖にとまっていたカモメが一斉に飛んだ。バサァと分厚い布を広げたような音がした。男の子がはしゃいで叫ぶ。カモメの群れは公園を旋回し、海の彼方へ飛んで行く。
カモメにつられたのか、背後の芝生を歩いていた鳩までもが一斉に飛び立った。羽が頭上を掠め、慌てて頭を下げた。辺りの女性たちが短い悲鳴を上げた。
すべてはわずかな時間のことで、すぐに辺りは何事もなかったかのように動き出す。実希子が顔を上げた時には、どこにも鳥の姿はなく、波間を縫う影も見当たらない。自分はここから一歩も動いていないのに、迷子になったような不安に襲われる。
「さて。そろそろ行くか」
立ち上がった徹から、手が差し伸べられた。その手を握ると少し心が落ち着いた。
「中華街で飯でも食ってこ」
「うん」
岸壁から這い上がってくる影が見えた気がしたが、急いで目を逸らし、徹の腕に抱きついた。徹は腕を引き寄せて歩き出す。なにが食べたいかと聞かれる。えーとね、と回らない頭で考える。
中華街の煌びやかな青龍門をくぐったころには影のことなど忘れていた。