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祈願成就  作者: 霜月透子
一、瀬尾実希子
7/22

1−7

   *


 徹と並んで面会票に記入していると、背後から「みきちゃん」と声がした。絵里の母だった。事前に訪問時間を伝えていたため、ナースステーションの前の談話室で待っていてくれたらしい。


「本当に来てくれたのね。ありがとね」

「いえ。絵里ちゃんに会いたいですし」

「あの子も楽しみに待っているわ。えっと、そちらは……」

「ご無沙汰しています。刈谷徹です」

「刈谷って……あの徹くん? まあ、立派になって」

「いえ、そんなことは……」

「ご両親は元気?」

「はい。おかげさまで。気ままに暮らしているようです」

「それはよかったわ。あんなことがあったから、立ち直るのに時間がかかったでしょうけど」

「……ああ……はい」


 徹がわずかに眉根を寄せたことに絵里の母は気づかない。兄が自ら命を絶ったことから徹はまだ立ち直っていない。きっと当時すでに大人だった人にはわからない。年上だったはずの修の年齢を追い越し、どんどん引き離していく側の人の気持ちなんて。憧れていた存在を置き去りにして大人になっていく気持ちなんて。


 実希子はそっと徹の背を撫でた。筋肉が張って固くこわばっているのが布越しに伝わってきた。


「あらいけない。こんなところで話しててもしょうがないわね。絵里の病室はこっちよ」


 ナースステーションから三つ目の六人部屋に〈進藤絵里〉のプレートがあった。進藤姓のままだ。一人暮らしをしているとは聞いたが、独身なんだ、と改めて思う。徹との結婚が決まってから、今までは気にも留めなかった他人の結婚状況が気になる。自分のこととは何の関係もないはずなのに不思議なものだ。


 同室の患者たちに会釈をしながら窓際に向かうと、ベッドの上でノートパソコンのキーを叩いている女性がいた。


「ちょっとごめん」と顔も上げずに言った。「すぐ終わるから、このメールだけ送らせて」


 絵里の母が困ったように眉根を寄せた。


「ごめんなさいね。せっかく来てもらったのに。この子ったら、ずっとこの調子で」


 実希子たちは笑顔で首を振って、絵里の様子を静かに見守った。

 ギプスをしているのは右足だが、手首にも包帯を巻いている。手の方は捻挫だろうか。痛みがないわけではないだろうに、そんな手でもパソコンを操作し続けている。


 やがて勢いよくエンターキーを叩くと、そのままノートパソコンの蓋を閉じた。ようやく絵里と目が合う。


「みきちゃんが来てくれるとは聞いていたけど、まさか徹くんも一緒だとは思わなかったわ」


 絵里はまるで昨日会ったばかりの友人みたいに話しかけてきた。


「健二くんにも声をかけたんだけど、都合がつかなかったみたいで」

「へぇ。みんなは連絡とり合っているんだ?」

「あ、いや、健二くんとは、その、偶然というか……」


 病院という場所ではっきり言うのははばかれた。すぐさま察した絵里が小刻みに頷く。


「ああ、この前の、ね」

「うん。そう。この前の……あ、そうだ。これ、お見舞い」


 花束を手渡すと、絵里はお礼を述べてから母親に差し出した。


「お母さん、花瓶あったよね?」

「この前、洗って戸棚に入れたわよ」


 シャッと音がした。どこかのベッドでカーテンの引かれたようだ。

 ベッドサイドの小さな戸棚を漁る母親の姿を見ながら、絵里は声のボリュームを落とした。


「お母さん、お花お願いね。私たち、談話室で話すわ。……行こ」


 絵里はゆっくりではあるが慣れた動作で車椅子に移る。絵里が自分で車輪に手をかけようとしたが、徹はそれを制して車椅子を押した。


   *


 談話室といっても壁で仕切られているわけでもなく、ナースステーションの向かいにある開放的なスペースのことだった。テーブルと椅子、飲み物の自動販売機、公衆電話、小さな本棚。あるものといえばそれくらいだ。

 整形外科の病棟は比較的元気な患者が多いと聞くが、まったくその通りに見えた。怪我の箇所を除けば他は健康だからなのだろう、動きは不自由そうだが将棋を指す人もあれば、笑い声を上げて語らう人たちもいる。内臓疾患とは違い食事制限もないのかスナック菓子や菓子パンを食べている学生らしき人もいる。


 実希子たちは絵里の指示で窓際の端に落ち着いた。怪我をしている人たちはいくつものテーブルを避けて奥までたどり着くのが手間なのか、窓際のテーブルはどれも空いていた。


「今日は来てくれて本当にありがとう」


 絵里は重々しい口調で礼を述べて頭を下げた。


「なんだよ、大袈裟だな」

「そうよ。急に改まってどうしたの?」


 病室での気さくな様子とまるで違う態度に戸惑いつつも、深刻になりすぎないように実希子も徹も笑顔で応じた。けれども絵里はあっさりそれを無下にした。


「……聞いてほしいことがあるの」


 身を乗り出し、一層声を落とした絵里の様子に、徹と顔を見合わせ、笑みを収めた。さっきまでの態度は、親を心配させまいとしての振る舞いだったことは明らかだ。


「あの日、私、見たのよ」


 絵里はそれだけ言ってうつむいてしまった。


 絵里の視線の先では、組んだ両手の指先が白くなっている。話始めるのを待つが、呼吸が早くなるだけで、口を開く気配がない。こちらまで絵里の動悸が伝わってきそうで緊張の限界だった。


「あの日って?」

「見たってなにを?」


 徹と同時に問いかけた。


 絵里が視線を上げて口を開く。


「……猫よ」


「猫?」


 またしても徹と声が重なる。顔を見合わせる。


 深刻な顔をしてなにを言うかと思ったら、猫を見た?


「あの日……郁美のお通夜の日、別にそのために帰ってきたわけじゃなかったの。母がね、ここのところ腰が痛くてつらいっていうから、買い物やら家事やらをやってあげようと思って。うちは父がいないし。私も有給休暇を消化しなきゃならないし、ちょうどいいやって」


 猫の話ではなかったのか。そう思ったが、話を遮らないように頷くだけに留めた。一度話し始めたら、絵里の舌は滑らかだった。


「私が夕飯の支度を始めようとしたら、夕飯は気にしなくていいから、郁美ちゃんのお通夜に行ってくればって言われたの。そのまま帰って平気だからって。だから簡単な夕飯を作って、家を出たのね。今さら小学校時代の友達のお通夜って行くべきなのかどうかわからなかったんだけど、母は行けそうもないし、うちから誰か一人は行った方がいいじゃないかと思ったの。斎場は駅までの通り道だし、ちょっと寄っていけばいいか、って」


 一世帯から一人行けばいいというのはわかる。実希子も瀬尾家代表の役を体よく母に押し付けられた気がしないでもない。それでも久しぶりに健二に会えたし、行ってよかったと思っている。余計な人物にも会ってしまったわけだけれども。


 話し始める前のためらいはどこへ消えたのか、絵里は頭の中のことを言葉に変換するのすらもどかしそうに早口に語る。


「母の手伝いが終わった時点で、その日私のやるべきことは終わった気分だった。悪いとは思うけど、正直、お通夜は形だけ参列すればいいやと思っていて。早く済ませてしまいたかった。だから近道をしようと思って、雑木林の横の階段を下りて行ったの」


 秘密基地があった雑木林だ。駅へ向かうバス停がある通りは広い歩道もあって歩きやすいが、雑木林をなぞるように大きく迂回しながら高台を下りていく。その半円を突っ切るように古い階段があった。そこを通れば歩く距離も短いし、下りならばバス通りを歩く時間の半分もかからないはずだ。絵里はそこの階段で怪我をしたと聞いている。


「いつもは駅までバスかタクシーで帰るから、あの道を通るのは久しぶりだった。古い街灯で明かりが暗かったけど、足元が見えないほどではなかったし、階段の上の方はまだよかったの。でも下っていくとどんどん道幅が狭くなってきて。雑木林の草や枝が階段にまではみ出してきているのよ。あの高台の辺りに住んでいるのも年配の人ばかりだから階段なんて使わないんでしょうね。そんなことに気づいたころにはもうだいぶ階段を下りていて、上の道に戻るのは面倒で……」


 子供のころでもあの雑木林はうっそうとしていた。間伐などしていない手つかずの林。地面は腐葉土でふかふかと柔らかく、晴れた日でもしっとりとした空気が満ちていた。奥の方に行けばクマザサやシダが生い茂って水辺もないのに雨上がりのような匂いがした。


 駅前の大通りへ続くコンクリートの階段も湿った色をしていた。おそらく新興住宅地になる前からある階段で、土地の持ち主が山の尾根に上るために造ったものだったのだろう。あの雑木林も住宅地になれば階段も新しいものに造り替えられたに違いない。けれどもまだあの雑木林があるというなら、階段も当時のままなのかもしれない。そんな道を日が落ちてから一人で歩く状況を思い浮かべて、実希子は自らの腕を抱いた。


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