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玄関から出てきたのは、ボストンバッグと大きなトートバッグを持った年配の女性だった。道に人がいるとは思わなかったらしく、実希子を見て眉が上がった。髪を染めそびれたのか、頭頂部の髪の根元が白く伸びかかっている。あちらが先に口を開いた。
「みきちゃん……?」
覚えていられたことに驚きながら、頷く。
「お久しぶりです」
そう挨拶したものの、ほかの道で会ったなら、すぐには絵里の母親だとは気づかなかっただろう。郁美の通夜で、健二が実希子を見知らぬ人だと思ったのもわかる気がした。記憶というのはずいぶんと頼りないものだ。
「本当に久しぶりねぇ。お母さんのところに行ってきたの? 瀬尾さん、元気にされているかしら?」
「はい。元気すぎるくらいでした」
近所なのに今は付き合いがないのだろう。子供たちは親の交友関係に準じていると思っていたが、親の方も、子供が同い年だからという理由で親しくしていたのかもしれない。
それにしても、よく実希子だとわかったものだ。健二にはわからなかったというのに。ひと目でわかるほど子供のころと印象が変わっていないのだとしたら、嬉しいような悲しいような、不思議な気分になる。
「おばさんは」
自然に昔の呼び方をしてしまい、誤魔化すように笑うと、相手も懐かしそうに笑った。
「おばさんは、旅行ですか?」
二つのバッグを視線で示しながら問いかける。正確な答えなど期待していない、挨拶の延長みたいなものだ。けれども、返ってきたのは駅の近くにある総合病院の名称だった。岩倉台総合病院。
「絵里がね、入院しているのよ」
「えっ。絵里ちゃん、どうしたんですか?」
言った後で不躾な質問だったことに気づき、下唇を小さく噛み締めた。
幸い、絵里の母は気にした様子もなく話し始めた。
「それがね、あの子ったら間抜けなのよ。今は一人暮らしをしているんだけどね、この前、ほら、郁美ちゃんのお通夜の日に」
予期せぬところで出た郁美の名前に肩が跳ね上がる。誤魔化すようにバッグを持ち替えたが、今度も絵里の母は気にしていないようだった。
「こっち来て家のことを手伝ってくれてたの。そしたら、郁美ちゃんのことがあったでしょう。だから、近くにいるんだし行って来たらって、送り出したのよ」
「そうなんですか? 斎場では見かけませんでした。行った時間が違ったのかもしれませんね」
やはり来てはいたのだ。だからどうだということではないのだが、徹にも教えてあげようと思ったところで、「違うのよ」と思考を遮られた。
「行く途中で転んで骨折したの」
「転んで骨折? いったいどこで?」
絵里もみんなと同い年だから三十五歳だ。高齢者ならいざ知らず、この年でも転んだ程度で骨折などするものだろうか。
「それがよくわからないの。たぶん近道をしようとして雑木林の横の階段をおりて行ったんだとは思うんだけど。あの子は転んだって言っているけど、階段で足を踏み外して何段か落ちたんじゃないかしらねぇ」
「雑木林、ですか……」
「あら。覚えてない? あなたたち、よくあそこで遊んでいたじゃない?」
「そうですけど……あの辺りって、宅地造成工事していませんでしたっけ?」
「そうだったかしら? でもまだ雑木林は残っているわよ。バブルが崩壊して宅地開発も頓挫したのかもしれないわねぇ」
当時は子供だったので、よくわかっていなかったが、実希子たちが中学に上がる前にはバブル崩壊を迎えている。バブル崩壊後は急速に不景気に突入していったことを考えると、当初の宅地計画が白紙になったとしても不思議はない。
「その雑木林ってどこでしたっけ?」
「ほら、そこの角を右に行って……」
絵里の母が指差した角から、白杖にスーツ姿の圭吾が現れた。静かな住宅街に杖の乾いた音が響く。近づいてきた圭吾に絵里の母が声をかける。
「圭吾くん、お帰りなさい」
圭吾が足を止めた。
「進藤さん? どうもこんにちは」
「やだわ、もう圭吾くんが帰ってくる時間なのね。みきちゃん、バタバタでごめんなさいね。おばちゃん、病院に行かなくちゃ」
「あ、はい。引き留めてすみませんでした。今度お見舞いに行かせてください」
「やだ、そんな気を遣わないで。でも絵里も会えたら喜ぶと思うわ。ありがとね、みきちゃん。絵里のことを心配してくれて」
絵里の母はバッグを抱え直すと足早に去っていった。絵里のことを誰かに話したかったのかもしれない、と気づいたのは、少し猫背の後ろ姿が見えなくなってからだった。
日は落ち始めると早い。わずかな時間の立ち話だと思ったが、辺りには薄闇が訪れ、空気を群青色に染めていた。
子供のころならば慌てて家に帰る時間だ。家々では夕食の準備が進み、魚を焼く匂いや肉を炒める匂い、時にはカレーやハンバーグの匂いを嗅ぎ分けられたほどだった。
今はなんの匂いも漂ってこない。子供のいない街とはこれほどまでに生活の気配が希薄になるものなのか。
圭吾が歩き出す。実希子はとっさに呼び止めた。
「待って! 圭吾くん」
圭吾が振り向くのを待って名乗る。
「実希子よ。瀬尾実希子」
やはりぼんやりと形くらいは見えているらしく、視線は合わないものの実希子の顔の辺りに目を向けている。
「……ああ。おばさんが呼んでいた〈みきちゃん〉って実希子ちゃんのことでしたか。僕にもなにか用事が?」
実希子はノートを圭吾の胸に押し付けた。圭吾は黙って受け止めた。
「ノートを返しに来たの」
「ちゃんと手元に届いたんですね。よかった」
「ちっともよくないわ。なんのためにノートを」
「読んだならわかるでしょう?」
「読んでないわ。興味ないもの」
「じゃあ読んでください。姉の遺書だと思って」
圭吾がノートを突き返してきた。動きにつられてつい受け取ってしまう。その瞬間、迷惑だという気持ちが強く湧き上がり、つい顔をしかめた。圭吾に見られることはないとわかっていても後ろめたくなり、そっと顔を伏せる。
これが親とか徹とかが書き残したノートであったなら、隅々まで読んで大切に保管するだろう。けれども郁美とはとっくに縁が切れているし、正直なところ、小学生のころだって仲のいいふりをしていただけだった。
母が言うように、どこか不気味だった。クラスの女の子たちがある種の尊敬をこめていた〈魔女〉という呼び名からも、実希子には黒魔術を扱う姿しか思い浮かばなかった。クラスの子は知らないのだ。郁美が秘密基地でなにをしていたのかを。
秘密基地では五人一緒に遊ぶこともあったが、大抵は各々好きなことをして過ごしていた。だから郁美がなにをしているか知ってはいたが、口出しする者は誰もいなかった。場所を共有するだけの仲間。それが自分たち幼馴染みの形だった。
「もういいですか? 今日は懐中電灯を持っていないので暗くなる前に家につきたいんです」
言うが早いか圭吾は塀に沿って歩き出した。辺りは早くも薄闇に包まれている。住宅街なので当然街灯はあるのだが、その明かりだけでは足りないということか。カツカツと杖の音が遠のいていく。
実希子は気持ちを切り替えて大きく一つ息を吐くと、ノートをバッグにしまい、駅へと向かった。




