1−4
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幼馴染みの死に涙の一つも零さなかった。そんな自分の薄情な一面に消沈していたのも一週間ほどのことだった。
郁美のこと以外、実希子の日常はなにも変わらない。通勤電車も職場も、郁美がいなくなったことなどお構いなしに進んでいく。
いつしか、郁美のことを忘れているということさえ忘れていた。
そこへ、実家から角2の茶封筒に入った一冊のノートが届いた。B5サイズの、学生が使うような一般的なノートだ。無地に近いシンプルな表紙にはタイトルも名前も書かれていない。
パラパラとページをめくると、罫線を無視した走り書きで埋め尽くされている。他人に読まれることを意識していない文字に見えた。
改めて封筒の中を覗いてみるが、手紙が同封されていないため、このノートがなにを意味するのかさっぱりわからない。
母に電話をすると、圭吾から実希子に渡すように頼まれただけで内容までは知らない、という。
『お通夜の時にあんたに会ったって圭吾くんが言ってたわよ。その時になにか話したんじゃないの?』
圭吾の不快な物言いと不吉な言葉を思い出し、重たい気分になったが、母には関係のないことだ。つとめて軽く受け流した。
「圭吾くん? うん、会ったけど、ノートのことなんて言ってなかったけどなあ」
『どうせあんたが忘れているだけなんじゃないの? いつもぼーっとして。だいたいいつまでもそんなだから……』
「あ、そういえば、そんなこと言ってたかもしれないなあ」
子供のころのことまで持ち出されそうなのを察知して、慌てて思い出したふりをした。
『ほらあ、やっぱり。ぼんやりしてないで、もっとしゃんとしなさいよ? じゃあね。ちゃんと渡したからね』
満足げな母との電話を切り、ため息をついたあと、再びノートのページをめくった。他人のものを勝手に見てはいけないという良心がそうさせるのか、綴られた言葉は記号のようで、なかなか内容が頭に入ってこない。
字面を眺める限り、女性の筆跡だと思われた。圭吾の筆跡を知っているわけではないが、おそらく圭吾のものではない。となると、このノートはきっと郁美のものだ。
いったいどういうつもりで……。
圭吾の意図がまったくわからない。いくら郁美にとって最後の友人とはいえ、二十年も前の話だ。それに、あの中でなぜ実希子を選んだのかも理解できない。絵里の代わりに託されたのだろうか。
五人の中でもっともしっかりしていたのは絵里だ。でも通夜には現れなかった。圭吾にしてみれば、徹の実家はとっくに転居していて徹へ繋がる伝手はないし、健二はなぜか友好的とは言い難い態度だった。だから実希子にこのノートを託すことにしたのかもしれない。人選についてはひとまず推測できた。
次に、ノートを送り付けてきた理由だ。答えを求めて再度ノートをめくる。手紙は同封はされていなくても、メモくらいはついているのではないか。
しかし、よく考えてみれば、圭吾の視力でメモを書くことが可能なのか疑問だ。それで手紙もなしにノートだけを送ることにしたのかもしれない。
疑問に思った実希子が圭吾に連絡することを期待されているのだろうか。現在も実家暮らしなら、こちらから連絡をするのは難しいことではない。
ただ、億劫だ。なぜ今になって長らく交流を断っていた幼馴染みの弟と繋がらなければならないのか。実希子はノートをしならせて、パラパラとページをめくった。
すると、中ほどで大きく開いた。写真が一枚しおりのように挟まっていた。町内の盆踊り会場での写真だ。子供たちが並んでカメラを正面に見据えている。
写真の挟まっていたページに目を走らせてみるが、盆踊りだの祭りだのそれらしい言葉は見つからないから、適当なページに挟んだだけなのだろう。写真を手に取り、改めて眺める。
そこには実希子の姿もある。けれどもこの写真に見覚えはない。おそらく誰かの親がカメラの向こうにいるのだろうが、撮影されたことも覚えていない。
前列に徹、健二、絵里が、後列に郁美と圭吾の姉弟、実希子、徹の兄の修が並ぶ。この顔ぶれがそろったのはわずかな時期だけだ。
自分たちは小学校高学年に見えるが、小学生最後の夏休みの五人組は高熱を出して寝込んでいて盆踊りどころではなかったから、それ以前、小学五年生といったところだろう。すると、圭吾は小学二年生、修は中学二年生ということになる。
当時すごく大人っぽく見えた修は、こんなにも幼かったのかと意外な思いで見つめる。三十五歳から見た中学二年生は大人からは程遠い。幼いといっても年相応の姿なのだが、記憶の中の修は、当時の実希子の目を通した、常に三歳年上の修だった。
あのころは、よもや修の年齢を追い越す日が来ようなどとは微塵も思わなかった。これからも修とは離れていくばかりだ。
実希子はため息とともにノートを閉じた。
*
ゆっくりと瞼を開き、合わせていた手を下ろす。供えたばかりの菊の花の白さが目に沁みた。控えめに吹く風が、細い煙を揺らし、線香の香りがふわりと立ち上る。
「兄貴に婚約報告をしたいだなんて、実希子は律儀だな」
その言葉に含みがあるのではないかと徹を見るが、いつもと変わらぬ笑顔だった。妬いたわけでも呆れられたわけでもないらしい。それもそうだ。子供のころのことなど気にするはずがない。実希子は安心して再び墓石に目をやった。
側面には修の戒名と、享年二十才の文字が彫られている。修が三度目の大学受験に失敗した年齢だ。
当時高校二年生だった実希子は、修の不合格を知り、来年は一緒に受験できると不謹慎にも少し気分が高揚した。あのころは自分の感情で手一杯で、修の気持ちを推し量ることはなかった。もちろん三度もの失敗は相当なショックだろうと想像はできたけれど、それは妥協せずに目標の大学を変えなかったからだし、まさか命を絶つほどに思い詰めていたとは気づかなかった。
だが、気づけなかった悔しさと同時に気づけなくて当然だという思いもある。そのころすでに幼馴染み同士の交流はなく、実希子と徹も中学入学以来口をきいていなかったし、その兄ともなれば一層話す機会などない。ましてや、気づいたところで実希子にどうにかできる問題でもない。
修は、犬の散歩で雑木林の前の道を通りかかった住民によって、縊死体として発見された。
そして一年後、徹が都内の大学に進学が決まるのを待っていたかのように、彼の両親は息子のためのアパートを借り、自分たちは伊豆へと転居したのだった。
修とその一家に起きたことを町内の人はみな知っていた。当然、圭吾だって知っているはずなのだ。そして、そんな大きな出来事を忘れるはずがない。
それなのに通夜の時に自殺だなんて単語を口にしたのは故意だったとしか考えられない。重ねて呪いだのとふざけたことまで言って。
姉が亡くなって心が不安定になっているのだろうか。普段の圭吾を知らないから比べようもない。いずれにせよ、関わらない方がいいに決まっている。
と、その時。修の戒名の上を、ネズミほどの大きさの影が駆け上がっていった。
まただ。
実際にネズミがいたわけではない。影だけだ。頭上をなにかが横切った影が落ちたのかもしれないと、見上げてみても揺れる梢もなければ、流れる雲も鳥も見当たらない。
「そろそろ行こうか」
はっとする。徹の言葉で、現実に引き上げられた気がした。実希子は頷くと、徹と並んで墓地の中を歩き出す。
実希子が歩き始めると、影も歩き出した。横になり後ろになり、ちょこまかとついてくる。ただついてくるだけだ。実希子は黙って視界の隅に影をとらえ続けた。徹に声をかけたら、見失ってしまう気がした。
影は、けして正面に捉えることができない。必ず視界の隅に現れ、首を巡らせると影も動く。そのくせ、見ることを放棄すると、さも見捨てられるのを恐れるかのように慌てて視界へ戻ってくる。その際も影は隅にいることを忘れない。
生き物ではないのかもしれない。そう思い始めていた。
錯覚。あるいは、なにかの残像を見ているだけ。
ただ、見かけるたびに影が大きくなっているのだけが気にかかる。影だと思っているのが視野欠損だったらどうしよう。いや、でも、それならば影の位置は常に同じはず。影が見える以外の自覚症状はないが、目が疲れているのかもしれない。
「実希子の実家にも挨拶に行かなくちゃな」
徹の声に、意識が表に返る。
「あー……ごめん、私、まだ親に報告してないんだよね」
「え? そうなの?」
「うん。電話したら、ちょうど郁美ちゃんのこと知らされて、言えなくなっちゃって」
「ああ……そっかあ。そうだよなあ。まあ、ゆっくりでいいか。ここまできて焦ることでもないし」
十年交際してきたのだ。今さら数週間や数か月の遅れなどどうということもない。それよりも気になっていることがあった。
「ねえ、徹はどうして急に結婚する気になったの?」
「ん? べつに急ってわけでもないんだ。俺の中ではずっと、いつかは実希子と結婚するんだろうなって思いはあって。今だから言うけど、誕生日のたびに今年こそは、今年こそは、と思っていたんだ」
「え? そうだったんだ?」
結婚云々よりも、当然のようにこれから先も一緒にいるのだと思っていてくれたことに胸の奥がくすぐったくなった。
「うん。ただ、実希子はどうなのかって自信がなくて」
「どうして? 私たち、仲良くやっていたと思うけど?」
十年も一緒にいれば小さな行き違いや些細な衝突はあった。けれども大きな喧嘩に発展したことはない。翌日に持ち越さないどころか、話しているその場で解決する類のものばかりだ。
「うん。そうなんだけど……その、なんだ……実希子はさ、兄貴と結婚したがっていただろ? だから……」
思わず吹き出した。
「やだあ、徹ったら、いつの話をしているのよ」
「なんだよ、笑うことないだろ」
「だって、私が修くんを好きだったのって小学生のころよ? それに、修くんが……その、亡くなったのだって、私たちが高校生のころじゃない。昔の話よ」
「気になるんだから仕方ないだろ」
徹は視線を逸らした。久しぶりに見る子供っぽい表情に、実希子の口調が自然と和らぐ。
「修くんへの気持ちを引きずっていたら、最初から徹と付き合ってないわよ」
門が近づき、車道の音が聞こえてきたところで、今度は徹が吹き出した。
「え? なに? 私、変なこと言った?」
「いや。墓地でする話でもないよなと思ってさ」
「そうね。たしかに」
笑い合いながら門を抜け、ふと思い出して足元を見渡したが、もう影はついてきていなかった。




